三淵嘉子(撮影年月日不明)

 小田原市板橋にある「三淵邸・甘柑荘」では、梅が実り始めた。NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデル、日本初の女性弁護士で、女性初の裁判所長になった三淵嘉子が大事にした別荘である。【本橋由紀】

 嘉子が初めて三淵邸を訪れたのは、1950年7月に他界した三淵邸を建てた忠彦の弔問だった。忠彦は戦後の民主化により発足した最高裁判所の初代長官である。2年7カ月務め、70歳で定年退官した4カ月後に息を引き取った。嘉子は最高裁に勤めた時、忠彦の著書の改訂作業に関わったことがあった。

 東京地裁で判事補になった嘉子が、判事となって名古屋地裁に移ったのは52年12月である。56年5月に東京地裁に戻り、原爆投下の違法性が争われた民事訴訟「原爆裁判」にも関わった。「原爆投下は国際法違反」という画期的な判決は、嘉子が東京地裁から異動した後に出されたが、判決文にはその名が連ねられている。原告の損害賠償は認められなかったが、原爆被爆者の救済に寄与した。

 最初の夫を病気で亡くし、41歳になっていた嘉子は、56年8月に恋愛結婚を成就させる。相手は忠彦の長男で、50歳の乾太郎(けんたろう)。最高裁で調査官をしており、3女1男がいたが、前年に妻が病死していた。

 嘉子は忠彦の妻、静に気に入られたようだ。静自身、乾太郎を含む3男1女の子どもがいる忠彦と結婚した。この時、17歳だった乾太郎は継母の静に反発したというが、父と同じような道を選んだ。

 乾太郎の長女、那珂(なか)も嘉子に複雑な気持ちを抱いていたようだ。親族によると、実母を慕っていた那珂は嘉子のことを名古屋まで見に行ったことがあったという。

 「華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの」(佐賀千恵美著)には、生前の那珂が嘉子について「継母という感覚はない、『父の連れ合い』。父は、母が強く出ると『うん、うん』と言う。父が彼女に対してもっと強くなればいいと思っていました」「自分の正義で憤慨する。身内としては、つきあいにくかった」などと語ったことが書かれている。

 嘉子の実子、芳武は生来の優しい性格で乾太郎にも実の息子のように接したが、生涯「和田」の姓を変えることはなかった。

 複雑で難しい家族関係ではあったが、嘉子は頼れる伴侶を得て、幸せな結婚生活を送る。そして、62年12月に東京家庭裁判所の兼務となった。

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