男たちを翻弄(ほんろう)する美女が身の毛もよだつ恐ろしい異形に…………。漫画家・伊藤潤二さんのホラーは、ページをめくると美と醜の世界が一転、嫉妬や欲望が渦巻く内面のドロドロも噴出する。作品は国内外で大人気で、都内で開催中の「伊藤潤二展 誘惑」には人気キャラのコスプレファンも海外から押しかけるほど。会ってみると、本人はいたって優しいジェントルマン。うーん、どうしてこの人からまがまがしいホラーが生まれるの?(山根由起子)

 ――伊藤さんの美しくもグロテスクなホラー漫画が人気です。ご自分らしさはどこにあると思われますか?

 日常から始まり、おぞましいことになっていく展開ですね。人体が変形していくボディーホラーの作品も多いです。ホラーの面白さは、美と醜の対極をいかに際立たせるか、です。どこまで美しく、怖く描けるか、挑戦のしがいがありますね。

 歯科技工士をしていた時に学んだ解剖学の知識も生きています。リアルさを出すために、図鑑や解剖学の写真集なども見て研究します。舌が巨大ななめくじになる「なめくじ少女」を描いた時は、歯ブラシにインクをつけて飛沫(ひまつ)をたらしてなめくじの模様を表現し、ホワイトを入れて光らせて、ぬらぬらした質感や陰影をいかに出すかを工夫しました。

 ――どんな少年時代でしたか?

 岐阜県中津川市の生まれで、古い長屋で育ちました。外のボットン便所や真っ暗な半地下の部屋、戦争で負傷した人の写真集があった物置も怖かったですね。おとなしくて暗くて神経質な子どもで、友達は少なく陰キャ(陰気な性格)でした。姉たちが好きだった楳図(うめず)かずお先生の漫画を読んで育ちました。5、6歳ぐらいから鉛筆で落書きみたいなホラーの絵を描いていました。

「富江」の原点

 ――ホラー漫画誌の新人漫画賞「楳図賞」で佳作を受賞、デビュー作となった「富江」はどのように生まれたのですか? 人を狂わせるほどの美女、富江は男たちを惑わせて殺意を抱かせ、バラバラに殺されてもよみがえり、どんどん増殖していきますね。

 トカゲのしっぽは切れても再生しますが、人は死ぬといなくなってしまいます。中学3年の時、同級生が交通事故で亡くなり、ショックを受けました。翌日も登校してくるような気がしたのに、存在自体がなくなってしまったことが不思議で仕方なかった。その不可思議な感じを、よみがえる「富江」で描きました。「富江」には匿名のミステリアスな魅力を持たせたかったのです。ファッション誌で名前を知らないきれいなモデルたちを見て研究しましたね。

 ――富江は、高飛車で男たちを翻弄する美女ですが、付き合ってみたいですか?

 一瞬ならいいかもしれないけど、実際はいやし系がいいですね。

【動画】ライブドローイングをする伊藤潤二さん。蛇に巻かれる「富江」をGペンで描く=山根由起子撮影

 ――作品が海外でも大人気です。売れなかった時期はあるのですか?

 富江シリーズで単行本の「地下室」(1990年)が出たとき、名古屋の書店で売れずに残っていて、気になって何度も見に行きました。その後、月刊のホラー漫画誌の読者投票でも「富江」シリーズの人気がどんどん下がり、「ついにやめるときが来たか」と覚悟を決め、ネーム(下絵に入る前のラフ原稿)に「終局」というタイトルを入れて編集者さんに送ったことがありました。でも、開き直り、いったん「富江」から離れて、別の読み切りを描き始めたんです。短編が好きなので、やる気がわき、新たに続けていくことができました。

 ――「富江」はその後、復活しますね。様々な渦巻き模様に町の人々がとりつかれ、怪奇現象が起きる長編「うずまき」はどのように生まれたのですか?

 自分も長屋育ちなので、最初は、万里の長城みたいなすごく長い長屋の住人たちの異常な物語を描こうと思ったのですが、もっと面白い長屋の描き方はないかなと考えました。その時、恐ろしく長い長屋を渦巻き模様に連ねてしまおうと思いつき、渦巻きというテーマが生まれたのです。渦巻きに関する本を片っ端から読み、かたつむりとか三半規管とか巻き髪とか、一話一話いろいろな渦巻き模様のわざわいを描きました。

考え続けて、考え疲れて…

 ――ホラーのアイデアはどのようにためていますか?

 思いついた時にすぐメモします。断片やイメージ、絵で描くこともあります。でも、アイデアが枯渇してくるので大変です。あ、前に描いたのと似ているなとか。ストーリーの展開に無理が生じて行き詰まってしまうことも。考え続けて、考え疲れて、お風呂に入って、あー、ようやく策が見つかったということもあります。

 ――大変ですね。伊藤さんが今、最も怖いものは何ですか?

 死ぬことが怖いですね。それから、若いころは視線恐怖症だった時がありましたが、今も昔も一貫しているのは自分が怖いことかな。自分のビデオや録音された声とか、客観的に知ることが嫌でしょうがない。「死びとの恋わずらい」ではドッペルゲンガーの恐怖を、「首吊(つ)り気球」でも自分の顔をした気球が自分を狙って飛んでくる恐ろしさを描きましたが、自分を外から見たときに何者なんだという気味の悪さ、底知れないわけのわからなさが怖いですね。

 ――ジェントルマンな感じで、おぞましいホラーを描くようには見えないのですが……。

 子どものころから紳士的だったのかもしれません。「クラスで一番いやらしくない男子」と思われていたほどです。でも内面にドロドロしたものがあり、漫画にすっかり放出してしまい、今では内面もさわやかです。

 ――ハハハ。普段はどんな生活ですか?

 朝9時に起きて、寝るのは夜中2時ぐらい。作業はデジタルに移行しましたが、紙に描くのと同じように液晶ペンタブレットで画面に緻密(ちみつ)に描くんですよ。だから腰痛が大変。妻(絵描き・絵本作家の石黒亜矢子さん)は作風は違いますが、なかなかいい絵だなと思います。娘は2人います。甘い父親ですよ。

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 いとう・じゅんじ 漫画家 1963年、岐阜県中津川市生まれ。高校卒業後、歯科技工士になる。86年「月刊ハロウィン」の新人漫画賞「楳図賞」に「富江」を投稿し佳作受賞。翌年デビューした。代表作に「うずまき」「首吊り気球」「双一」シリーズ、「死びとの恋わずらい」など。「伊藤潤二傑作集10 フランケンシュタイン」(英語版)などの作品で米国のアイズナー賞を通算4度受賞。作品は30以上の国と地域で翻訳されている。

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「伊藤潤二展 誘惑」 9月1日[日]まで、東京都世田谷区の世田谷文学館(03・5374・9111)。午前10時~午後6時(入場、ミュージアムショップは午後5時30分まで)。休館は月曜(祝休日の場合は翌火曜)。一般1千円、65歳以上・大学・高校生600円、小・中学生300円。公益財団法人せたがや文化財団 世田谷文学館、朝日新聞社主催。10月11日[金]~12月22日[日]、兵庫県伊丹市の市立伊丹ミュージアムに巡回。

 展覧会公式サイト(https://jhorrorpj.exhibit.jp/jiee/

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