姉さん格ケダマ、甘えん坊クーちゃん、唯我独尊のテツオ。漫画家の仕事場で暮らす猫たちはちっとも言うことを聞きません。漫画家中川いさみさん(62)が、そんな3匹とのいとしい日々をつづるマンガ「コロコロ毛玉日記」を、朝日新聞beで2020年秋から連載しています。明るい笑いの背景には、大病の後遺症と闘う中川さんが初めて飼った猫から見いだした、「苦しむより楽しむ人生の処方箋(せん)」がありました。

 異変は11年前、鼻にできた「おでき」だった。痛くもかゆくもない、ただ、いつまでも治らない。がんだった。当時51歳、末っ子は小学生。やりたい仕事もたくさんある。「僕はまだ、死ぬわけにはいかない」

 一般的な療法が効かず、残された選択肢は二つ。鼻を周辺組織ごと切除するか、先進医療の「重粒子線」治療で鼻を残すか。鼻のない自分を想像できず、重粒子線での治療を選んだ。

 以来、がんは再発も転移もしていない。鼻腔(びくう)の乾燥など違和感は残ったが、「鼻と引き換え」と思えば耐えられた。皆に「よかったね」と言われ、特異な入院体験を闘病記「重粒子の旅」(2019年、小学館)にまとめ、「これで一段落」。そう思っていた。新たな後遺症が、じわじわと姿を現すまでは。

 照射箇所にやけどのようなひりつく痛みを感じたのは、治療後5年ほどたったころ。鼻で何かがむずむずとうごめくような、気持ちの悪い感覚にも悩まされ、幾つも病院を訪ねたが、後遺症を根治してくれる医師はなかなか見つからない。

 耐えがたくなると痛み止めを飲み、痛みの波が引くのをじっと待つ。「がんも痛みはなかったから、これほどの苦しみが日常的に続くのは人生で初めて。ほとほと参ってしまった」。痛みにとらわれると思考もネガティブに傾く。折からのコロナ禍もマイナス思考に拍車をかけた。「この痛みがさらに増すのでは、老いて病が増えもっと苦しむのでは」。悲惨な末路ばかり考え、さらに鼻が痛む悪循環に陥っていた。

 そんな20年初頭、妻が一匹の猫を連れてきた。生後3カ月のブリティッシュショートヘア。重みを感じぬほど小さな、灰色の毛玉のような生きものを手のひらに載せた時、その目に衝撃を受けたという。「金色に透き通りきらきら輝く宝石のよう。こんな感慨を他の動物で感じたことはなく、ただ、ああすごいな、と心の中でつぶやいていた」

 中川家で飼われることになったその猫――「ケダマ」は、中川さんが一日の大半を過ごす仕事場に居着いた。走り回っていたかと思えば足元にすり寄り、金色の目で見上げてくる。抱き上げれば銀を帯びたグレーの毛並みは極上の絹の手触りだ。

 「こんなに美しい生きものが毎日そばにいて、僕に甘える。これはやっぱり、すごいことに違いない」。心はとろけ顔はにやけ、もう愛さずにはいられない。

 動物を飼うのは可愛がるだけではすまない。トイレの掃除、餌や水の世話、抜け毛の始末。育つにつれ身体能力も増したケダマは、餌や水をひっくり返し、仕事机に飛び乗り、パソコンのキーボードの上を闊歩する。

 「大変だし困らされるけど、見ればケダマは可愛くて、何をしても怒れない」。長年犬は飼ってきたが猫を飼うのは初めてだったから、その習性の違いも面白く感じた。餌は足りているか、水はあるかと、猫のことばかり考えるようになっていった。

 やがて驚くべきことに気付いた。頭と心が「猫のこと」でいっぱいになるにつれ、あれほど占領していた「鼻の悩み」が押し出され、苦しみを遠ざけることができるようになったのだ。

 後遺症が消えたわけではない。夜に横たわり傷んだ鼻に意識を向ければ、痛みがどっと押し寄せる。だが音もなくベッドに飛び乗ったケダマがほおにすり寄るくすぐったさを感じ、胸に抱き上げそっとなでれば、ひりひりもむずむずも、どこかに霧散してしまう。

 人間は精神の生きものなのだと、つくづく思わされたという。「この美しい生きものがその信頼しきった瞳で見つめ、温(ぬく)もりをすり寄せてくるだけで、僕の心は幸福で満たされ、医師にも治せぬ苦しみから穏やかに救ってくれるのだから」

 その年の10月、「コロコロ毛玉日記」連載開始。コロナ禍と猫の毛の掃除器具をかけた題名通り、当初はコロナも多く題材にしたが、回を追うごとに増えたのが「ケダマ」への反響だった。

 「猫を飼えない人からケダマを『ウチの猫』と思い楽しみにしてる、と手紙をもらい、とてもうれしかった。僕が多く描いてきた不条理ギャグは、ひねりを楽しむ心の余裕を得づらい現代にそぐわない。猫に振り回される日常を素直な笑いのマンガで描き、ケダマが『みんなの猫』となり愛されるなら幸せと思った」

 連載も既に4年目。21年春にクーちゃん、22年秋にテツオ。2匹のエキゾチックショートヘアの猫たちも加わって、仕事場はますます猫中心になっていく。

 19日、初の単行本が出た。「猫の可愛さと面白さを詰め込んだ」と振り返る。「無邪気な猫の大騒動を笑えば、心身を悩ます余計な考え事もしばし退散してくれるだろう。痛みにとらわれていた僕が、小さなケダマに救われたようにね」

ネコちゃんズ「絵描き歌」も

 単行本出版を記念し猫たちの「絵描き歌」が作られた。

  • 「絵描き歌」が聞ける朝日新聞出版のサイトはこちら

 作詞は中川いさみさん、作曲・アレンジは音楽プロデューサー松任谷正隆さん。6月末、ソプラノ歌手伊藤和子さんと、歌詞の「ねこパンチ」から名をとり結成した「ねこパンチ合唱団」の女児3人が参加し、都内で収録が行われた。

 壮大なオープニングに猫の鳴き声、まぎれ込む生活音。朗々たるソプラノに気ままな子どもの歌声が交錯し、明るいのに不穏な曲調は中川ワールドそのものだ。「昔から中川作品のファン。発想や心の持ち方で助けられてきた」と松任谷さん。

 7月初旬、さらに気ままな男児パートも収録して絵描き歌は完成。中川さんは「ちゃんと猫が描ける面白い歌。僕も自分の絵の描き方を再認識できた」と話す。(西本ゆか)

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