村山由佳さん=東京都千代田区で2024年4月11日、和田大典撮影

 昭和史に強烈な印象を残した「阿部定(あべさだ)事件」の発生からもうすぐ88年となる。最愛の男性をあやめ、局部を切り取って持ち去ったとされる猟奇性から「妖婦」と呼ばれる定。だが、作家の村山由佳さん(59)は、評伝小説「二人キリ」で、好奇の目にさらされながら懸命に生き抜く定を描いている。「『妖婦』に代表される記号としての『阿部定』から人間性を引き出したかった」という村山さんがたどり着いた、等身大の「お定さん」とは――。

逮捕された直後の阿部定(左)=1936年5月20日撮影

 新聞などに基づいて史実を丹念に追ったルポルタージュ「阿部定正伝」(堀ノ内雅一著、1998年)などによると、事件は36年5月18日に東京・荒川の宿泊先で起きた。定は情事の最中に愛人・石田吉蔵(当時42歳)の首を絞めて殺し、遺体の性器を持って逃走した。吉蔵の太ももには血文字で「定吉二人キリ」と書き残されていた。

 時は陸軍青年将校が首相官邸などを襲撃した「2・26事件」の3カ月後。不穏な時代に起きた、情欲にまみれた生身の人間による事件は、世間の耳目を集めた。まゆをひそめ、嫌悪する人が多い一方で、率直な興味、関心を抱く人も少なくなかった。だからだろう、事件は繰り返し本や映画の題材となった。

 村山さんが関心を持ったきっかけは3年ほど前、事件を特集したテレビ番組への出演を機に、定の予審調書とされる書物に触れたことだ。裁判に先立って定が語った、生い立ちから事件に至ったいきさつが記されている。ページをくると「実行に移すかどうかの違いだけで、事件に至る心情そのものは、自分にも覚えがある、という気持ちが強くなってきて……。書きたくて仕方なくなった」と村山さん。今年1月刊行の「二人キリ」は、史実を踏まえながらも小説の体裁をとり、猟奇性やエロスをいたずらに強調することなく、定の人間像に迫った。ぐいぐい引き込まれ、ぜひ村山さんに話を聞きたいと思った。

 定は1905年、東京・神田の裕福な畳職人の家に末っ子として生まれた。15歳ごろに学生から性的暴行を受け「お嫁に行けない」と思い詰めて遊び歩くように。ほどなく父親の手で芸妓(げいぎ)として売られ、娼婦(しょうふ)などをしながら各地を転々とした。30歳の時、料亭に住み込みで働くようになり、勤め先の料亭のあるじ、吉蔵と出会った。初めて本気でほれたその人は妻子持ち。二人は駆け落ち同然に料亭を出ると周辺を転々とし、性愛をむさぼりあった。吉蔵はひたすら優しかったという。出会いから3カ月後に事件は起きた。

 「性愛を貪欲に求める気持ちはかつての私にもありました。でもそれは精神的に満たされていなかったから。お定さんも体だけ求められたり裏切られたりして、男性から正当に扱われない不満や、信じたいのに信じられない気持ちが蓄積していたはずです。私は今の夫と結婚して飢餓感がなくなりました。気持ちも体も全部満たしてくれる吉蔵に会った時、お定さんがどれだけ解放されたのか、分かる気がします」

 定は殺害の動機について「(吉蔵が)生きていればおかみさんの所へ帰るので、ただ帰したくないという気持ち」「かわいそうとも思ったが、独占できてうれしいと思う気持ちのほうが多かった」と話したという。

 それにしても殺さなくても、との思いは禁じ得ない。だが、村山さんは「一番愛する相手だからこそ、心が離れてしまえば自分が壊れてしまう。生殺与奪の権を相手が持っていることがしんどくなってしまったのかもしれません」と定を思いやる。

 はた目には狂気じみた行動も、村山さんの目には純粋さゆえと映る。「事件は純愛ではなくエゴと言う人もいます。でも恋愛なんて、みんなエゴではないでしょうか。彼女の中では、吉蔵との時間は、本当に混じりけのないものでした。今、ここ、しか考えない、非常に動物的なものだったと思います」。二人きりの時間はあまりに濃密で、部屋を出れば魔法が解けたかのように幸せも失われる……もしかしたら、定はそんな恐れを抱いていたのかもしれない。

「好きになるのは一生に一人」

 模範囚として5年弱で出所した後も波乱の人生は続く。

 定は、素性を隠したまま数年間、別の男性と暮らしたものの、事件を巡る下品な暴露本が出版されたことに憤り裁判を起こす。男性に逃げられ、一時は女優に、その後は水商売へ。客あしらいがうまく「あの阿部定」を見たい客が引きも切らなかった。

 事件について、作家の坂口安吾(06~55年)は「明るい意味で人々の印象に残った」と評し、舞踊家の土方巽(28~86年)は頼み込んで定と記念撮影している。さかのぼれば、獄中の定には、結婚の申し込みを含む1万通の“ファンレター”が寄せられたといわれる。

 なぜこうも、定は人気や関心を集めるのか。性愛の機微を描いてきた村山さんは「男性からすれば、切除されるくらい、男性器が女を狂わせる。男性器にはそれほどの力があるという逆説的な男根主義の表れではないでしょうか」と喝破する。では女性人気は? 「吉蔵は妻がいるのに女と遊ぶいいかげんな男に見えたのでしょう。だから『よくぞまあ、やってくれました』と快哉(かいさい)を叫ぶ気持ちがあったと思います」

 持ち去ったのが指だったならば、後世に語り継がれる事件にはならなかっただろう。定は「体や首を持って逃げるわけにはいかないので、一番思い出の多いところを切り取っていったのです」と述べたという。

 定は70年ごろまで台東区でおにぎり屋を営むと、65歳で千葉のホテルに仲居として身を寄せた。半年後にふっつりと姿を消し、以降は消息を絶ったままだ。存命であれば118歳となっているはずだが、どうなのか。最後の置き手紙は体が悪くて働けないとわびる内容で「ショセン私は駄目な女です」と締めくくられた。「一生懸命、違う自分になろうとしたが、もう変われないという万感のこもった一言だったと思うと切ない」と村山さん。きれいな人だから老いた姿を見せたくなかっただろうし、いろいろな意味で「きっぱり舞台を降りる」つもりだったかもしれない――そんな想像も巡らせる。

 定は映画に出演したこともある。「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」(石井輝男監督、69年)がそれだ。水色の着物に黄色い帯を締めてスッとした立ち姿の定は語る。「人間というものは、一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とかいいなと思うのはあるでしょうね。人間ですから。でも、芯から好きなのは一人じゃないかしら」。定は55年に吉蔵の永代供養を山梨県の寺に頼み、お参りに来ていたという。

 3年かけて定の人生に伴走し、作品を執筆した村山さんは、定を「ひたむきに愛しすぎた女」と表現する。「どんなに結果が愚かであっても、出発点が愛である限りはそれも人の姿でしょう。そんなお定さんを肯定できる自分でありたいと思います」【上東麻子】

 ■人物略歴

村山由佳(むらやま・ゆか)さん

 1964年、東京都生まれ。会社勤務などを経て作家デビュー。93年「天使の卵―エンジェルス・エッグ」で小説すばる新人賞、2003年「星々の舟」で直木賞、09年「ダブル・ファンタジー」で中央公論文芸賞など、21年に伊藤野枝を描いた評伝小説「風よ あらしよ」で吉川英治文学賞。近著に作家の朴慶南さんとの対談「私たちの近現代史 女性とマイノリティの100年」。

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