白い閃光(せんこう)に包まれた13歳の夏。長年遠ざけてきたつらい記憶を、79年近くを経て語り始めた被爆者がいる。広島市中区の才木幹夫さん(92)は今年4月、「被爆体験証言者」の委嘱を受け、原爆資料館などで話している。きっかけとなったのはロシアのウクライナ侵攻だった。「世界の人々は核の悲惨さを知らない。われわれには知らせる義務がある」。被爆の実相を広く伝えることで、核廃絶と戦争のない世界へと近づくことを願っている。

終戦直前の1945年8月6日朝、県立広島第一中(現広島国泰寺高)2年生だった才木さんは爆心地から約2キロ東の自宅で被爆した。母親から買い出しを頼まれ、「靴を履こうと思った時、ピカッと光った。辺りが真っ白になり、家が崩れて真っ暗になった」。路面電車乗り場にいた父親は爆風で近くの橋まで吹き飛ばされ、左半身にやけどを負った。飛び込もうとした川には多くの人が浮いていたという。

爆心地から約800メートルにあった一中では、生徒と教職員の計369人が犠牲となった。才木さんらは急きょ自宅待機を指示され、運命を分けた。家族も助かった。

翌日、学友に「学校へ行こう」と誘われ、途中の比治山で「地獄」のような光景を見た。「道の両側に黒い物体がずらりと並び、山の下まで続いていた」。おびただしい数の遺体と焼け野原となった街を目の当たりにし、引き返した。

「生き残った後ろめたさがある。死んだ人に申し訳ない。話さないといけないけど話したくない」。その後は地元テレビ局に勤務し、長年葛藤を抱え続けたが、ウクライナ侵攻で破壊された街並みを見て、家や親を失う孤児があふれると思うとあの日と重なった。90代に入り、「この機会を逃したらもうできない」。生かされたことに向き合う決心を固めた。

講話では、たった1発の原爆により推計約14万人が亡くなったことや、比治山で見た光景などを説明。「私たちは本気になって、核の恐ろしさを知らせていかなくてはならない」と訴える。

平和記念公園と昨年、姉妹公園となった米ハワイ州のパールハーバー国立記念公園との協定に基づく市の事業で8月17日にホノルルへ出発、ハワイ大などで講話を行う。「被爆の実情を率直に伝えたい。戦争はあってはならない、そう思ってほしい」

互いを理解し合うことが平和への一歩になると信じる才木さん。後ろめたさをなお抱えながら、「これから何年、話ができるかが悩みだが、一日でも長く伝えていきたい」と語った。

インタビューに応じる才木幹夫さん=7月23日、広島市中区

学生らに講話する才木幹夫さん=7月28日、広島市

才木幹夫さんが講話で使った原稿のコピー=7月23日、広島市中区

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