近年、沖縄戦当時の県知事・島田叡と県警察部長の荒井退造にまつわる事跡を語り継ぐ動きが盛んである。彼らの人間性の素晴らしさと、疎開の推進によって多くの県民の命を救ったとされる「功績」に心を動かされ、敬愛の念を持つ方も多いだろう。

 本書は、島田と荒井の沖縄戦中の仕事の全体像を、当時の新聞や行政の動向を示す資料などを駆使して描き出していく。と同時に、彼らの「功績」にまつわる語りが、出来事の切り取りや都合の良い解釈によって成り立っていることを指摘し、見過ごされている彼らの仕事を知らせ、歴史認識の誤りをただそうとする。

 そもそも疎開は戦争遂行のために軍の要請によって行われた。足手まといとなる者の移動が目的で、県と警察は北部への立ち退きを推し進める中で、「可動力のある者」の移動を厳重に取り締まった。地域に残された人々は戦闘のさなか、5月末頃まで県と市町村によって続けられた動員業務によって避難壕から駆り出されたという。疎開と動員は一体のものでもあり、軍の意向であった。これを、命を救った功績としてよいのかと本書は問うている。

 島田は、赴任後の短期間に行政組織を改編し、戦時行政へ移行させ、次々と現地軍の要請に応じる措置を行った。島田は人格者でかつ仕事ができるのだ。その仕事は戦争遂行の優れた歯車としてのものであった。本書は資料編に島田が出した訓示や諭告、新聞記事などを掲載している。読者は身近な人に生きるよう促した島田が、知事として県民に発した言葉、例えば「竹槍や鍬を使ってでも米兵を殺せ」といったものを直接確かめることができる。

 著者らは、彼らの物語が本土の人々の癒やしの材料となっていると指摘する。しかし、本土側の動きに先駆けて島守の塔を建立し、島田への賛辞をつくした出版物を最初に刊行したのは沖縄戦を体験した沖縄の人々であった。誤った認識が広がる危機感を筆者らと共有しようとするとき、この点を見逃すわけにはいかない。沖縄の人々も癒やされてきた可能性はないだろうか。(仲田晃子・ひめゆり平和祈念資料館説明員)

 沖縄タイムス社・1650円/かわみつ・あきら 1960年生まれ。沖縄国際大学非常勤講師、沖縄大学大学院非常勤講師。はやし・ひろふみ 1955年神戸生まれ。関東学院大学教授。元・新沖縄県史編集専門部会(沖縄戦)委員。

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