終戦から79年を迎え、戦争体験をした人が減り続け、その記憶を語り継ぐことは年々難しくなっています。そんな中、大野市では、戦時中の写真を見ながら当時の人たちの暮らしぶりやその思いを身近に感じてもらおうという催しが開かれました。大野は空襲の被害などには見舞われませんでしたが、大切な息子や夫を戦地に送り出した女性や、幼いながらも国を守ろうとする子供たちの姿がありました。
大野市の遺族連合会青壮年部が開いた、戦時中の写真を見ながら平和について考える催しで講師を務めたのは「越前大野かたりべの会」の佐々木正祐会長です。
「写真は嘘はつかない」と佐々木さん。10年ほど前に大野市が市民から古い写真を募り、集まった約5500枚の中から、戦争に関する写真を紹介しました。
昭和17年頃、陸軍飛行機部隊を映した一枚は、報道班員だった大野出身の兵士が残した写真です。
また、出征を記念して撮影された家族写真からは、着物などから晴れがましい様子がうかがえますが、皆とても硬い表情をしています。京福の駅で予科練に入隊する家族を、女性たちが見送る様子も残されています。
佐々木さんは「昭和18年の出征兵士の壮行会の写真では、奥の方に出征する兵士がずらりと並んでいる。会場は緊迫感がいっぱいで、ただただ頑張ってきてくれとという思いだったと、この写真の持ち主は話していた」とします。
大野市に残る「武運長久」を祈る千人針は、赤い糸の玉に、兵士が無事で帰ることを願う無言の祈りが込められています。会場の人たちは、実際に指で触れながら当時の女性たちの思いを感じていました。
戦時中の女性たちは、いわゆる「銃後の守り」に徹し、戦闘を支えようと必死でした。それは大野の女性たちも同じです。鐘の供出では、赤ん坊を背負った母たちも集まり、空襲に備えてバケツリレーにも参加していました。
ついには、子供たちもが労働力として駆り出され、勝原の国民学校で食料増産のため、畑を耕す子供たちの様子も収められています。
けがや病で戦えなくなった傷痍軍人たちが療養している様子を収めた写真は、痛々しい姿ながら、兵士らしく凛々しい表情がうかがえます。
最後に紹介されたのは、下庄村で行われた戦死者の葬儀の写真です。「あちこちの戦地から遺骨が帰ってくる。一定期間ごとに合同で「村葬」されていた」と佐々木さんが当時の状況を説明します。
参加した人は「1歳の時に父親が戦死したので、初めてこういう話を聞いた」「私のおじが2人、海軍で亡くなっているが、戦争というのは悲惨なもの。男だけでなく女性も子供も犠牲になる」と話していました。
戦争を語り継ぐことが難しくなる中、大野の歴史を研究する佐々木さんは“自分にできることは何か”を問い続けています。
「越前大野かたりべの会」佐々木正祐会長:
「私は昭和31年の戦後生まれなので、この私に語る資格があるのかないのか自問自答する。でも誰かがやらないということであればと、勇気を振り絞って話をしている」
大野に残る戦時中の写真の数々は、戦争の悲惨さを語る「証言者」としての役割を果たしていました。
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