江戸時代からの伝統を引き継ぐ「木更津芸者」。バブル崩壊やコロナ禍を経て、いまも6人が現役として活動している。木更津花柳界の灯は守れるのか。最年長で、千葉県木更津市芸寮組合の前組合長、新春日みきさん(78)に心意気を聞いた。【浅見茂晴】
――芸者歴はどれぐらいになりますか。
◆1968年、22歳の時に初めてお座敷に出ました。高度経済成長期のまっただ中。大企業や地元の名士、外国の方々からも呼ばれました。ソ連(当時)のお客様はウオッカで「オーチンハラショー(ロシア語で『とても素晴らしい』の意)」、中国の方々とは茅台(マオタイ)酒で乾杯しました。どちらもアルコールが強くて大変でした。ソ連の方は当時、「オデッサ(ウクライナ南部)から来た」と言っていました。ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見ると、あの時のお客様は無事だろうかと心が痛みます。中国の方は服装は質素でしたが、皆、目を輝かせていたのが印象的でした。
――周囲の目が気になったことはありませんか。
◆芸者をしていることは、ちっとも恥ずかしくはありません。有名な財界人などとご一緒させていただいたことは芸者冥利に尽きます。いろいろなお話をしましたが、お座敷でのことは外ではしゃべりません。
先輩から礼儀や作法など、厳しくしつけられました。お座敷に入って、上座のお客様に呼ばれたからといって、直接は行けません。必ず下座の背後を通って行きます。お客様の方も若手が世話役として末席にいて作法を学んでいました。その後、出世していく姿も頼もしかったですね。
――芸者の心意気とは?
◆お客様に「粋」がありましたね。小唄や舞踊などをたしなむ方もいて、こちらも芸に身が入りました。お客様からよく言われたことは「本を読み、旅をしろ」でした。元々、私は好奇心が旺盛なので、どこにでも出かけます。枕元にはいつも、いろいろな本を積んで読んでいます。お客様も芸者衆も高め合うような関係でした。
――今は厳しい状況ですか。
◆社会情勢が変わり、お座敷に呼ばれる回数も減りました。かつては、夜6時にお座敷へ入ると、真夜中の12時まで続き、その分の玉代(給料)をいただきました。今は2時間で終わりです。それでも美容院代や衣装代はかかるので大変です。
幸いなことに、2013年に木更津商工会議所を中心として「木更津伝統伎芸(ぎげい)を守る会」(はなまちサポーターズ)が発足しました。習い事への支援などを頂いています。また、若手で三味線の先生になるなどの動きもあり、期待したいと思います。大正時代に木更津出身で、東京・新橋の芸者になった若福が、江戸時代にはやった「木更津甚句」を再び大流行させました。それを今後も伝えていきたいですね。
しんかすが・みき
1946年、八街市生まれ。周囲に勧められて見合いをし、新婚旅行へ向かう列車に乗ったものの、「やっぱり自分が好きになった人以外はだめ」と途中から逃げだし、友人がいた木更津に身を寄せたことがきっかけで芸者になった。
木更津市芸寮組合 料亭への芸者の手配を取り次ぐなどする「見番(けんばん)」で、その事務所がある木更津会館は稽古(けいこ)場にもなっている。江戸時代、木更津は「房総の玄関口」として一大歓楽街が形成された。大正から昭和30年代にかけてにぎわい、最盛期には200人もの芸者が在籍した。
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