無声映画時代の大スター

鎖国を解いた日本に西欧の文化が流入してきた明治時代。日本にもたらされた当時の映画には音声はついておらず、動く写真=活動写真と呼ばれた。もちろん、映像だけではストーリーは理解できない。そこで、活弁(活動写真の弁士)が場面の説明を織り交ぜながら、せりふを語り、楽士が演奏する音楽が、ドラマをよりドラマチックに演出する上映スタイルが生まれた。

映画がヒットするかどうかはひとえに弁士の話芸にかかっていたという。喜劇は軽妙な語り口で観客を笑わせ、切ない恋の物語はたっぷりと情感を込めて涙を誘う。観客は悪役の登場にブーイングしたり、弁士の熱演にやんやの拍手を送ったりと映画館はさながらライブ会場のような熱気に満ちていた。最盛期には全国で7000人とも8000人とも言われる弁士がいたという。人気弁士は今のアイドルのような存在で、 “追っかけ” もいたほど。

技術の進歩は目覚ましく、無声映画時代はそれほど長くは続かなかった。1927年に米国で音声と映像を同期したトーキー映画が登場すると、無声映画は徐々に廃れていった。俳優が話す言葉や、背景音が映像とともに流れるようになれば、弁士がいなくても映画は成立する。むしろ、映像の世界観を邪魔する存在とさえ思われるようになった。

しかし、活弁は絶滅していなかった。細々と、しかし力強く生き延び、日本独特の語り芸として、今、再び、注目を集めている。

“語り芸” の延長線上に生まれた活弁

いまや活弁界のレジェンドと呼ばれる澤登翠の公演に足を運んだ。

2023年12月29日、年も押し迫る慌ただしい時期にも関わらず、新宿の紀伊国屋ホールは満席で熱気に満ちていた。演目は、喜劇王バスター・キートンの名作短編『キートンの悪太郎』(1921)と、第1回アカデミー賞で監督賞、主演女優賞、脚本賞を受賞したフランク・ボーゼイギ監督の傑作『第七天国』(1927)。

澤登がスクリーンの左側にしつらえた演題の前に立つ。照明が落ち、スクリーンに映像が映し出されると、澤登の声が会場中に響き渡った。

ずる賢いけれどどこか憎めない若者、貧しくも強く生きるヒロイン、意地悪な姉、裕福な伯父と叔母、年老いたタクシー運転手…登場人物によって声色を使い分け、息づかいまで変化する。さらに、せりふとせりふの合間には、巧みにナレーションを差しはさむ。

まるで何人もの声優がアテレコをしているかのように感じるが、語るのは澤登1人だ。

活動弁士と声優では、役割が大きく異なる。澤登は、「セリフだけを声にするのが声優。物語全体を語るのが活動弁士。セリフも解説的な情景描写も語る。つまり物語をつかさどる役割を担っている」という。

澤登は「活弁」は、日本の伝統芸能の長い歴史の延長線上にあると考える。その象徴が人形浄瑠璃文楽だ。

文楽の人形は言葉を発することがない。人形遣いは黒子姿で無言で人形を動かすだけだ。舞台の上手(かみて)側に設けられた床(ゆか)で、浄瑠璃に載せて太夫(たゆう)が登場人物のセリフや心情、ストーリーを語り、三味線がドラマを盛り上げる。

名人と呼ばれる域に達する太夫は70代~80代の高齢男性だが、可憐な姫やふてぶてしい侍を自在に演じ分けるのは見事としか言いようがない。

他にも落語や講談、浪曲などストーリーを観客に語り聞かせる “語り芸” と呼ばれる伝統芸能が日本には根付いている。

「語り芸の下地がある日本に西洋から無声映画が持ち込まれた。スクリーンに映っているものを説明しなきゃいけないし、演じている人のせりふも言わないといけない。どうせなら、面白おかしく、観客を楽しませなければ…と興行主は考えたのでしょう」。必要性と娯楽性が合わさって、スクリーンの両側に弁士と楽士を配して映画を上映する日本ならではのスタイルがで出来上がったのだという。

フランスの映画界にも映画の黎明期に「compère」と呼ばれる活弁に似た職業があったが、日本で無声映画の時代に大スターとなった活弁のようにはいかなかった。

女優への憧れはあきらめたけれど…

活弁が活躍していたのは、澤登が生まれる何十年も前のことだ。澤登は、なぜ時代とともに消えゆこうとしていた活弁の道を進もうと考えたのだろう。

読書好きだった祖父や父親の影響で、子どもの頃から本に囲まれて育った。物語の世界にどっぷりとつかり、いつの間にか、続きのストーリーが頭の中に浮かび、それを友だちに話すのが楽しかった。両親に連れられてよく芝居を見に行っていたこともあり、中・高校時代は演劇部に所属。

映画も大好きだった。十代の頃、フジテレビで『テレビ名画座』の放送が始まり、洋画のとりこになったという。

「1930年代のフランスやイタリア、ドイツ映画のモノクロームの映像にうっとりしていました。外国の暮らしへの憧れや興味もあったし、女優さんの美しさにもひかれました。ミッシェル・モルガンとかマリー・ベルとか美しいでしょう? そういう自分が好きなものがいっぱい中に詰まっている洋画がとにかく大好きだったの」

心のどこかに「女優」に憧れる気持ちがあった。しかし、そんな夢見がちなことを言えば、堅実派の両親が反対するのは目に見えていた。大学卒業後は、出版社で編集補助のアルバイトを始めるが、それは本当にやりたいことではなかった。結局のところ長続きせず、家でくすぶっていた。


2023年12月のリサイタル。紀伊国屋ホールは満席だった

師匠・松田春翠との出会い

そんなある日、渋谷の薬学会館で溝口健二監督の無声映画 『瀧の白糸』 の上映会があるという新聞の告知記事が目に留まった。原作は泉鏡花。

「もともと、泉鏡花が好きで、よく読んでいました。原題は『義血侠血』。それが、『瀧の白糸』というまったく別のタイトルで映画化されたのには、いったいどんな意味があり、どんな世界が広がっているのだろうと気になって見に行ったんです」

水芸の芸人・白糸と貧しい士族青年との悲恋物語。白糸は、青年の学費を支援するために、罪まで犯してしまう。

「最後の法廷のシーン。愛する男のために罪を犯した白糸が裁かれる。裁く方の検事として登場するのは、彼女から学費の援助を受け、検事となったあの青年だった。男に尽くし、尽くした男に裁かれるという運命の皮肉。検事を見上げる彼女の目には、死を覚悟した女のすごみがこもっていた」

澤登の心を捉えたのはドラマチックなストーリーや俳優の演技だけではなく、活弁付の無声映画という上演形態だった。それが、澤登が観た初めての無声映画であり、師匠・松田春翠との出会いだった。


2代目松田春翠(マツダ映画社提供)

「女性と男性の心理表現の巧みさ、せりふとせりふの間の情景の語り、繊細な表現と声の力に圧倒されて、初めて知った活弁の世界にいっきに引きずりこまれた。家で漫然とテレビで見ている時とは全然違って、映像と音楽と語りの3つが混然一体となって心と体に迫ってくる」

その圧倒的なパワーに引き付けられて、押し掛けるように弟子入りを志願したという。

無声映画時代「最後の活弁」と呼ばれる松田春翠が生まれたのは、トーキー映画の始まりとなった『ジャズ・シンガー』が米国で公開される2年前の1925年であった。わずか6歳で活弁としてデビューし、日活のメロドラマの語りを務めた。松田は生涯弁士として活躍し、戦後は日本の無声映画の収集と保存にも尽力。1952年にはマツダ映画社を設立した。現在、澤登をはじめ、何人もの活弁たちがマツダ映画社を拠点に活動している。

澤登は松田の語りだけではなく、彼の人柄にもひかれた。「情に厚い江戸っ子。それが言葉の端々に表れていて、先生が語る時代劇のべらんめえ調はテンポがよくて小気味がいい。音楽性があり、起伏があって流れるがごとくという感じで、聞いていて心地よい語り。その技術を身に着けるまでは長い年月がかかるだろうと思いました」


弟子入り間もない頃に、師匠の松田春翠さんと(マツダ映画社提供)

舞台に立つまでの厳しい道のり

修業時代は師匠の公演の前座として、『チャップリンのスケート』などの短編映画の弁士を務めた。同じ映画を何度も何度も繰り返し語ることで、自分のスタイルを確立していった。

「本格的な長い作品を語るには、その映画を徹底的に理解しなくてはいけない。時代背景や、監督が映像を通じて何を伝えようとしているのか。演じている俳優が、他にもどんな作品に出演していたのかなど調べることは尽きない。今と違って、インターネットもない時代。一つひとつのことをどうやって調べるのかということも悩みのタネだった」

なによりも難関だったのは、弁士として語る自分の台本をオリジナルで書くことだった。

「入門した当時はビデオもない時代で、先生の家でフィルムを回してもらうしかない。3回くらい繰り返し見せてもらい、必死でストーリーを頭に入れて家に帰って、台本を書く。あらかた出来上がったところで、先生の家に行ってもう一度、フィルムを回してもらいながら、修正をする。フィルムが傷んでしまうので、そんなに何度も何度も回してもらうわけにもいかず、見せてもらう時も真剣勝負。台本が書き上がると、最後にもう一度、フィルムを回してもらい、先生の前で語って指導してもらう」


「第七天国」を語る澤登翠さん

日本から世界へ

デビュー15年目の1988年、フランスのアヴィニョン演劇祭で、活弁を世界に披露する機会を得た。

サイレント時代を代表する俳優で、反骨的なヒーロー役を得意とした、阪東妻三郎主演作の映画の語りを任されたのである。その公演をきっかけに、アメリカ、オーストラリア、ブラジル、ドイツ、イタリア、オランダ、フランス、ベルギーなど毎年様々な国際映画祭に招待されるようになった。

澤登にとって、特に印象深いのは1990年のベルギーのアントワープでの公演だ。

演目は、運命を変えた映画・『瀧の白糸』。

公演が終わっても、お客さんは席を立とうとしなかった。それで、急きょ、客席からの質問に答えることになった。「米国人のコーディネーターが通訳をしてくれました。どうやって台本を作っているのか、入門当時の練習のこと、弁士の仕事で生活できるのかなど―思わぬ質問がどんどんと飛んできて楽しかった。感謝感激。お客さんの中に日本の大学の先生がいて、台本を見せてほしいというリクエストまであった」

客席との楽しいやりとりが終わり、着替えて外に出ると、何人かが出待ちしていた。「11月の寒い夜なのに、私のことを待っていて、また公演を聴きたいと言ってくれたことにすごく感動した。海外公演で、こうした出会いに恵まれたことに心から感謝した」


1990年のアントワープ公演(マツダ映画社提供)

デジタルの時代にも輝き続ける無声映画

澤登はデビューから半世紀を過ぎた今も、マツダ映画社に籍を置き、東京の劇場や全国の映画祭で毎月のように公演している。

しかし、スマホさえあればYouTubeやTikTokなど刺激的な動画をいくらでも見ることができるし、アマゾンプライムに加入すれば、映画やシリーズドラマも見放題の時代。これ以上、モノクロの無声映画と活弁が生き延びる余地などないと考える人も多いだろう。澤登翠は最後の活動弁士になるのか…!?

そんなことは、まったくない。澤登の一番弟子の片岡一郎、同世代の坂本頼光を筆頭に、30代、40代の弁士たちが、独自のスタイルを模索しながら全国で公演活動をしているのだ。澤登は、24歳の大学を卒業したての若い弟子がいることを、うれしそうに話してくれた。

奇しくも、2019年には『Shall we dance?』『シコふんじゃった』などの作品で知られる周防正行監督の『カツベン!』が公開された。無声映画時代の、熱気あふれる映画館の様子や、活動弁士たちが芸を磨きしのぎを削る人間模様が生き生きと描かれた。

「無声映画は何世代も前のモラルや家族関係をフィーチャーしているので、古臭く感じる人もいるかもしれない。でも、そこには、現在の日常にあるものと全く違った魅力を発見できるはず」と澤登は力を込める。

劇場に足を運ばずとも手軽に映画を楽しめる。周囲の反応を気にせず、自分だけの世界に閉じこもれる。定額料金で何度でも繰り返し再生できるデジタル時代ならではの良さもある。しかし、その対極にある、演者と観客とがシンクロすることで生まれる熱気や、一期一会のライブ感に私たちの心は沸き立つのだ。だからこそ、今も、澤登の公演は満席になる。

「日本が大切に継承してきた語り芸の延長にある、活弁付映画の伝統を現代の弁士たちが新しい形で継承していってほしい」―澤登は後継者たちを暖かい目で見守る。

取材・文=ダニエル・ルビオ、小林凪
バナー・本文中の澤登翠さん撮影=コデラ ケイ

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