見ごろを迎えた灯台前のスイセン=三重県羽市の菅島で2011年2月9日撮影
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 元和歌山県立高校長で世界史教諭だった稲生(いなぶ)淳さん(69)=和歌山市=が、「日本の灯台の父」とも呼ばれる英国スコットランド出身の技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの功績を紹介する「明治の海を照らす 灯台とお雇い外国人ブラントン」を出版した。スコットランドから日本への技術移転に注目し、ブラントンが手掛けた26基の灯台と2隻の灯船から、日本の近代化を照らし出す力作だ。【松本博子】

 稲生さんは、県教育センター学びの丘所長や県高野連会長などを歴任。幕末から始まる和歌山・熊野と外国との関係を「海」や「世界史」の視点から紹介した「熊野 海が紡ぐ近代史」などをこれまでに執筆している。

「明治の海を照らす 灯台とお雇い外国人ブラントン」を書いた稲生淳さん=2024年1月12日、松本博子撮影
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 県内には「ブラントンの灯台」が樫野埼、潮岬(ともに串本町)、友ケ島(和歌山市)の3カ所に建てられた。串本町出身で「遠足といえば灯台」だった稲生さんにとって、ブラントンが建てた灯台は身近な存在だった。ただ、歴史的背景を調べてみようと思ったのは40代になってから。地域の出来事と日本史、世界史を結びつけるテーマを探すうち、旅先で横浜居留地のインフラ整備に尽力したブラントンの功績を紹介する冊子を偶然目にし「これやな!」とひらめいた。「日本の端っこ和歌山の、更に端っこに建つ灯台と、近代化を結びつければ面白い」

 ところが、ブラントンの灯台にまつわる史料は関東大震災などの影響でまとまったものがなく、各地に協力を求めた。例えば1870(明治3)年点灯の樫野埼灯台建設に従事した約70人の石工職人をどう集めたかという史料は、古座町(現串本町)が所蔵する筆書きの古文書で、新宮市内で高校教諭をしていた頃に、当時の町教育長から現代語訳を付けた写しを譲り受けたものだ。藩の民政局から「天朝(天皇の国)の御用だから、引き受けねば職業を剥(はく)奪するまで」と命じられていたことが分かった。

 また、灯台周辺の住民に「デッキさん」と慕われた灯台技師は、後に神戸で船舶雑貨商となったジョセフ・ディックではないかと考察。和歌山県移民史には、技師に誘われ神戸で牛肉店を開いた人や、神戸の異人館で働いていた若者たちが南洋に貝取りに行けばうんともうかると聞かされ行くことになったという住民の話が収録されている。全国有数の移民を出した和歌山県で、灯台人脈がオーストラリアでの真珠貝採取にかかわった説を提唱している。

 ブラントンの業績や時代背景、各地のブラントンの灯台・灯船解説や昔の写真に加え、2018年に渡英してブラントンの生家や日本人が建立した墓を訪れ、現地の灯台などを巡ったスコットランド探訪記も掲載した。

ブラントンが手がけた主な灯台
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 ブラントンの灯台は20年以降、次々と国の重要文化財に指定されている。厳しい立地環境に対応し、暖炉を備えた灯台看守の居住スペースも含めて地域の西洋建築の先駆け、日本人の技術習得の場となった例も珍しくない。原爆の爆風で損傷しながらも基礎やドーム部分が残った伊王島灯台(長崎市)や、阪神大震災の激しい揺れでも灯火を絶やさなかった兵庫県淡路市(旧北淡町)の江埼灯台などは、当時の設計・施工技術の確かさを物語る。

 稲生さんは「まだ内戦状態で外国人襲撃も相次いでいた日本に来る決断をし、厳しい環境で灯台を建てていった。短期間で成し遂げられた日本の近代化も、まずは航路が安全でなければ難しい」とブラントンの功績を評価。「なぜそこに灯台があるのか、その背景を考えると自分の住む地域と世界がつながり、22年から高校の必修科目になった『歴史総合』の教材になりうる。まだどこかに貴重な史料が眠っているかもしれない」と話している。

 「明治の海を照らす 灯台とお雇い外国人ブラントン」(七月社)は347ページ。3520円。

リチャード・ヘンリー・ブラントン

 1841年、英国スコットランド・アバディーン近郊に生まれる。鉄道敷設工事に従事した後、灯台技術者として68(明治元)年に来日。灯台建設を統率し、灯台看守のマニュアル作成や日本人技術者養成のための学校開設にも尽力した。鉄道や港湾整備なども提言し、76(明治9)年に離日。1901年ロンドンで病没した。

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