南北に延びていた長岡京の小路の側溝と、東西の小路の側溝とが交わっているのが確認された調査地=京都市南区で2024年9月18日午後2時12分、南陽子撮影

 784年に桓武天皇が奈良の平城京からうつした都で、京都府南西部にあった長岡京が、これまで考えられていた範囲より、少なくとも120メートル北へ広がっていたことが分かった。都の「北端」とされていた「北(きた)京極(きょうごく)大路(おおじ)」の道路跡から北へ1町(120メートル)の地点で、東西南北に延びる道路の交差点と建物の跡が京都市南区で初めて見つかった。10年で廃都となり謎が多い長岡京の造営や、条坊制と呼ばれる区画割りを採り入れた古代の都の姿に再考を迫る発見という。

 JR京都線・向日町駅(京都府向日市)の東側に、京都市が都市計画道路を建設するのに先立ち、市埋蔵文化財研究所が6月から発掘調査している。

これまで考えられていた長岡京の条坊

 長岡京は、幅24メートルの大路で碁盤の目状に街区をつくり、さらに幅9メートルの小路(こうじ)で16分割して、宅地の基本単位となる120メートル四方の「町」をつくっていた。全体では東西4・3キロ、南北5・2キロと考えられてきた。

 見つかったのは、南北に延びる小路の側溝と、東西に延びる小路の側溝で、いずれも幅1メートル、深さ40センチの半円状。側溝間で測った道幅は9メートルで、長岡京の小路や側溝の寸法と一致した。側溝のそばには建物の柱を立てた跡や宅地の排水溝も見つかった。北京極大路より北側ではこれまでも道路の側溝は確認されてきたが、今回の調査で道路のみ延伸されたのではなく、北に1町分あまりは宅地として造成されていたことがはっきりした。

 長岡京は、桂川と西山丘陵に囲まれた狭い地域に造営され、街区がどこまで造られたのか東西南北の全てで確定していない。國下多美樹・龍谷大教授(古代都城史)は「京域の北側は、地形の制約からやむを得ず拡張されたと考えている。他の都でも、北側がどう使われたかはよく分かっていない。教科書に載っている整った長方形でイメージされてきた古代の都の、本当の姿を探る重要な成果だ」としている。

 現地説明会は21日午前10時半から正午まで。【日高沙妃、南陽子】

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