坂本九(1941-1985)の「SUKIYAKI」は1963年の全米No1ヒットで、日本でも前年に「上を向いて歩こう」のタイトルで大ヒットした。

坂本の出身地の川崎市では、JR川崎駅と京浜急行線川崎駅が列車の発車を知らせる「発車メロディー」に採用している。坂本の出身地であることを川崎市のPRにつなげようと、地元の商工会議所などの働きかけで実現した。イントロやサビをつなぎ、楽曲を象徴する10秒ほどの短いメロディーにアレンジして電車の発車を知らせる。

川崎は横浜と東京の間に位置する人口150万人を超える大都市で、電車の発着本数が多いため、メロディーは短めだが、地方のローカル線で発着本数が少ない駅では、20~30秒ほどの長めのメロディーが、列車が間もなく到着すると知らせるために、のんびりと流れているケースもある。

日本で広まるきっかけは旧国鉄民営化と「鉄腕アトム」

私はそうした、街おこしにつながる日本全国の「駅メロ」を訪ね歩き、そのうち18駅を取り上げた「駅メロものがたり」(交通新聞社新書)を今年4月に出版した。

おそらく「駅メロ」は日本独自の鉄道文化である。“乗り鉄” の私は、国内はもとより、海外旅行や出張先でも積極的に鉄道を利用する。米国のアムトラックやロシアのシベリア鉄道をはじめ、中東欧を含む欧州全域、カナダを含む北米、中国、韓国などアジアでも鉄道を利用しているが、メロディーどころか、発車ベルすら鳴らないところも多い。定時になれば列車はすっと滑り出し、遅延も多いが、乗車は自己責任が原則だ。

一方、日本の鉄道は秒単位で時間に正確という特徴がある。時代をさかのぼれば1872(明治5)年に、日本初の鉄道が新橋~横浜間で敷設された際、乗務員向けの発車の合図として太鼓や鈴が使われた。

それが乗客に発車を知らせるベルに代わったのが1912(明治45)年、上野駅でのことだった。メロディーが採用されるようになったのは1987年の旧国鉄民営化が契機になる。1989年、JR山手線の新宿駅と渋谷駅でベルの代わりにメロディーが導入された。時代はバブル経済の絶頂期、人のあふれるターミナル駅で、けたたましい発車ベルで駆け込み乗車を助長するのではなく、耳に心地よいメロディーで「少し余裕を持って」というメッセージが込められていたようだ。

これがその土地ゆかりのメロディーになった先駆けは、2003年、JR山手線の高田馬場駅だと言われる。手塚治虫のマンガ「鉄腕アトム」を原作とする同名アニメの主題歌が「駅メロ」に採用された。原作中、アトムは高田馬場にある科学省で2003年4月に誕生した設定になっていることに加え、アニメを製作した「手塚プロダクション」が高田馬場にあった縁で、地元商店会などの要望で実現した。今も高田馬場駅では、懐かしいアニメソングのメロディーが流れる。

最古の駅メロは大分県豊後竹田駅「荒城の月」

これよりはるか以前に「駅メロ」に取り組んでいた例が実はある。

確認できる中で、最古の「駅メロ」は大分県の豊後竹田駅(竹田市)が1951(昭和26)年に始めた「荒城の月」だ。

竹田市で少年時代を過ごし、早世した作曲家、瀧廉太郎(1879-1903)の代表作で、市内に今も残る岡城址を想って書いた曲とされる。地元の人が、駅にレコードを持ち込み、列車の発車時に拡声器で流したことが始まりだったという。

当時は盤質が悪く、開始から12年で80枚もレコードを取り換えたという(大分合同新聞、1963年4月26日付)。1988年からは、地元の竹田市少年少女合唱団が録音した歌の音源が使われている。そもそも戦後の混乱期で、なぜ「駅メロ」の機運が生まれたのだろうか。


豊後竹田駅 ホーム(筆者撮影)

これは竹田が「隠れキリシタンの街」だったことと関係がある。キリスト教を通じ、海外の文化に目が開いていた土地柄であり、戦前に旧竹田町議会が、観光で街を活性化させようと決議した記録が残っている。

同じ大分県の別府や湯布院といった全国的に著名な温泉地と比べると、ひなびた温泉町だが、地域の人々は廉太郎を誇りに思い、功績を伝えていきたいという強い思いがある。戦後にスタートした記念音楽祭をルーツとする、高校生を対象とした「瀧廉太郎記念 全日本高等学校声楽コンクール」が2024年で78回目が開催される。このように「駅メロ」の魅力は、「地域を元気にしたい」と力を尽くした人々の物語にある。

外国人旅行者に響くか 富士山のふもとの「下吉田駅」

コロナ禍が明け、円安効果もあって急増している外国人観光客にも、駅メロを楽しんでもらいたいが…どうもそうでもないようだ。

例えば坂本九の「SUKIYAKI」が流れる川崎駅のホームを眺めていても、この駅メロに気付いた外国人が多いとは思えない。JR川崎駅の駅前ロータリーには全米No.1ヒットを含めて坂本の功績を紹介する記念碑が立つが、記載は日本語のみ。せめて英語の解説もつければ、外国人は関心を持ってくれるだろうか。


坂本九記念碑 (筆者撮影)

「SUKIYAKI」は国内外のミュージシャンがカバーしている。その中には“Stand By Me”の原作者で最初にヒットさせたことで知られるベン・E・キング(1938-2015)もいる。ベンは2011年の東日本大震災の支援のためチャリティーアルバムを発表しており、その中で「上を向いて歩こう」を日本語で歌っている。公演で来日した際には、坂本の妻で女優の柏木由紀子さんとも面会している。そんなことも紹介できるような記念館が川崎市にあれば、外国人観光客にも興味を持ってもらえるのではないか。

外国人観光客に絶大な人気を誇るスポットの一つが、富士山だ。大月駅(山梨県大月市)を起点に走る富士急行は全長26.6キロの私鉄で、常に富士山を目指す外国人観光客でいっぱいだ。目当ての一つは、沿線から至近距離で見える富士山の撮影にある。特に人気があるのが下吉田駅(山梨県富士吉田市)で、多くの外国人観光客が下車して富士山をカメラに収めている。


下吉田駅のホームから見える富士山(筆者撮影)

この駅で流れているのがロックバンド・フジファブリックのヒット曲。富士吉田市出身のメンバーで結成されたグループで、29歳で早世したリーダーの志村正彦(1980-2009)が作詞作曲、ボーカルを手掛けた「若者のすべて」と「茜色の夕日」の2曲が原曲のまま、列車の到着を知らせる接近メロディーとして2021年12月から流れている。

志村は、故郷をモチーフにした曲を多く残しており、この2曲にもその片鱗がある。「駅メロ」は志村の同級生だった富士急行社員が発案したものだった。「志村正彦を、富士吉田市を多くの人に知ってほしい」という思いから、2年がかりで実現にこぎつけたという。ホームには、志村とフジファブリックの功績、曲の歌詞が描かれたパネルが置かれている。駅を訪れる外国人観光客にも知ってほしいと、英語、中国語、タイ語の翻訳もつけられている。


下吉田駅ホーム(筆者撮影)

だが私がこの駅を訪れた2024年1月、ホームは欧米やアジアなど多くの外国人でにぎわっていたものの、みな富士山を撮影するのに忙しく、メロディーやパネルに関心を持っているようには見えなかった。何かが足りないとすれば、富士吉田市と富士山、志村正彦の魅力を伝えるコーナーを、日英併記で駅構内に作る、といった工夫はあってもよいのかもしれない。

「駅メロ」の魅力を日本から世界に発信できないか。私はJR軽井沢駅(長野県軽井沢町)でジョン・レノンの「イマジン」採用に期待したい。日本の歴史的な避暑地である軽井沢は、夫人のオノ・ヨーコの実家の別荘があった縁で、ジョンとヨーコ、息子のショーンの一家が1970年代に何度か長期滞在したことで知られる。今もファンがジョンを偲んで訪れるスポットが軽井沢にはいくつもある。その入り口となるJR軽井沢駅で「イマジン」が流れるのなら、世界的に注目されると思うのだが。

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