俳優としてだけでも膨大な仕事
これほど多方面から追悼された俳優がいただろうか。
10月17日の死去後、俳優や脚本家、監督はもちろん、バラエティーや音楽番組で関わった多くのタレントが悲しみの声を寄せ、共演の思い出などを語っている。テレビ各局は出演作を次々と放送した。
また、ロケを行った土地の人や、海外での過酷な撮影の協力者も西田さんをしのんだ。中国外交部も、亡くなった翌日の10月18日、記者会見で報道官が「中日両国の人々に愛された芸術家で、両国民の友好感情の増進に貢献した」旨を述べ、哀悼の意を表している。そして、故郷・福島に寄せる熱い思いに励まされた人たちも、その死を悼んだ。
西田敏行さんは1947年生まれ、福島県郡山市の出身。中学卒業後に上京し、70年青年座に入団、翌71年には舞台「写楽考」で主演を務めている。これを見たNHKのプロデューサーの目にとまり、73年の連続テレビ小説「北の家族」に出演、徐々に映像の世界にも進出する。80年にはドラマ「池中玄太80キロ」(日本テレビ)の主演で人気を集めた。以後、現代劇、時代劇を問わず多くのドラマで、さまざまなキャラクターを演じ続けた。
映画作品も多く、「植村直己物語」(86年)、「敦煌」(88年)、「学校」(93年)、「ゲロッパ」(2003年)などで数々の映画賞を受賞したほか、「釣りバカ日誌」(1988~2009年)はヒットシリーズとなった。
西田さんの仕事は俳優としてだけでも膨大である。近年では、テレビ朝日「ドクターX」(2013年~)や映画「アウトレイジ ビヨンド」(12年)で見事な悪役ぶりを見せていた。また、NHK大河ドラマとの関わりは特別だ。14作に出演し、「翔ぶが如く」(1990年)、「八代将軍 吉宗」(95年)など4作で主演を務めた。「おんな太閤記」(81年)の朗らかな豊臣秀吉、「葵 徳川三代」(2000年)の滑稽なほどに苦悩する徳川秀忠は絶品だった。初めての大河は1972年、「新・平家物語」の北条義時役。そして、最後の大河となったのが、その義時が主人公の「鎌倉殿の13人」(2022年)での後白河法皇役だった。なんだか因縁めいている。
暗く、狂気を秘めた役柄を演じたことも
代表作といわれるものからは、おおらかで親しみやすい、コミカルなイメージがうかがえるが、私の印象に強く残っている作品は別にある。
NHK「新・坊っちゃん」(1975年)の山嵐、大河ドラマ「花神」(77年)の山県狂介(後の有朋)と「武田信玄」(88年)の山本勘助だ。ユーモラスというよりは、笑わず、ちょっと暗くて、見る人の心を冷え冷えとさせるような狂気を秘めたようなまなざし。関西テレビ「けろりの道頓」(99年)では大坂の道頓堀を作った安井道頓として、秀吉に無謀な闘志を燃やす。こんな役柄もあった。
10月19日に放送されたTBS「情報7daysニュースキャスター」で、脚本家の三谷幸喜さんは、「池中玄太80キロ」と同時期に放送されたTBS「港町純情シネマ」を取り上げ、当時、周りの人が皆、池中玄太がよいと言っていた中、自らはひとり「港町…」を高く評価していたと話した。コメディーではあるがマニアックで暗い感じのドラマで、池中とは正反対の役柄だったと語り、近年のイメージとは異なる西田さんを紹介した。
1980~90年代には、映画やドキュメンタリーの撮影で海外へ行くことも多かった。北極、アフリカ、南米、中国、トルコ、赤道直下の国々へも出掛け、過酷な撮影で死を意識したこともあったらしい。
さらに、81年には歌手として「もしもピアノが弾けたなら」でNHK紅白歌合戦に出場、94年からはミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」に主演し、豊かな響きで多くの人を魅了した。声の仕事も多く、出演中のテレビ朝日「人生の楽園」のナレーションは心地よかった。2001年からは朝日放送「探偵!ナイトスクープ」で2代目局長として20年近く司会も務めている。
いったいこの人にはいくつの顔があるのだろう。どれもが素晴らしく、それが努力のたまものであることは容易に想像がつく。一生懸命勉強して人間を観察する目を磨き、自分のことも人のことも、たくさん知ることが大事だとインタビューで語っていたことを思い出す。
社会的な発言を重ね、出演作は海外でも人気に
西田さんは、自分の考えをきちんと発信する人でもあった。戦争に反対し、憲法9条を守る立場を明確にしていた。2005年のドラマ「広島・昭和20年8月6日」(TBS)では、家族で唯一生き残った少年が、原爆の語り部として過ごす晩年を演じている。戦争にNOと言い続けることが重要だというセリフには西田さんの思いが込められていたのだろう。ずっしりとした重みがあった。
東日本大震災のときは、福島の原発事故の影響で風評被害に苦しむ農家の応援を続け、原発反対を表明した。また、日本中国文化交流協会の会員として両国の交流に貢献し、理事長を務めた「日本俳優連合」では俳優の権利と待遇の向上を目指した。
西田さんの出演作は海外でも知られている。日本テレビ「西遊記」(1978年)は英国で、「敦煌」などの映画は中国で人気がある。北野武監督作品は欧州でファンが多い。ハリウッドなどの海外作品への出演こそないが、表現者としての力量だけでなく、社会のために活動する姿勢も十分世界に通用するものだろう。きっと世界は「西田敏行」を再発見するに違いない。
「釣りバカ」を見ていないことがバレバレだったのに…
西田さんは「人間が好き」だという。悪人も、バカだなあと思いながらもいとおしいのだと。人に優しく、おおらかな名優に後輩たちはひかれ、その背中を追っている。いかに多くの俳優が追悼の言葉を寄せたことか。本当に皆に愛された人だった。
私にも、西田さんの気さくな人柄の一端に触れた思い出がある。
1分にも満たない、ほんのわずかな出来事だったが、30年以上たった今も忘れがたい。それは1988年12月、「釣りバカ日誌」第1作の公開初日のことだ。この作品は「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」との同時上映だった。都内の映画館で、見終えたばかりの「寅さん」のパンフレットを手にエレベーターを待っていると扉が開いた。そこにハマちゃん役の西田さんと、みち子さん役の石田えりさんが乗っていた。他にも関係者がいたようだ。乗ろうとした足が止まった。思わず遠慮してしまったのだ。すると西田さんが「どうぞ、どうぞ~」と言ってスペースを空けてくれた。
西田さんは舞台あいさつを終え、映画館を出るところだったのだろう。私は、寅さんだけを見て、ハマちゃんを見ずに帰ろうとしている。冷や汗が出た。「釣りバカ」を見ていないことがバレバレではないか。しかし、西田さんはにこやかだった。きまりの悪さで1階までの時間がなんと長かったことか。「釣りバカ日誌」はヒットし、22作を数えることになった。シリーズ作品を見るたびに、申し訳なかったなあと、この時のことを思い出す。
西田さんのアドリブ満載、ユーモアあふれる芝居が楽しくて、おかしすぎて、つい、その奥にあるすごさを見逃してしまいそうになる。悲しみや諦観、時には静かな怒りなど、多くのものがそこにはあるはずなのに。残された作品を改めて味わいながら、それらをひとつずつ見つけていくことになるのだろう。
私たちは希代のエンターテイナーを失った。その喪失感は計り知れない。
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