駅の西側に人はほとんど住んでいない

鶯谷(うぐいすだに)駅の開業は1912(明治45)年7月11日。

バナー写真は建設中の様子を撮影したもので、右奥のプラットホームから陸橋を渡った先の駅舎に通じている。この駅舎が、現在の南口に相当する。駅の西側に当たる左の斜面の上には天台宗の関東総本山・寛永寺があり、さらにその西には、東京国立博物館と上野公園(現在の上野恩賜公園)が広がっていたため、人がほとんど住んでいなかった。それは現在も変わらず、市街地が広がっているのは東側である。


南口を出て右折した所にある新坂の様子を描いた絵。坂を上った先(画面の手前側)に現在の東京国立博物館がある。『東京真画名所図解 上野新阪』台東区立図書館デジタルアーカイブ


『東京真画名所図解 上野新阪』と同じ場所を大正時代に撮影した写真。現在、写真の右側には台東区立忍岡中学校がある。『いま・むかし下谷 浅草写真帖』国立国会図書館所蔵

東側にしか住宅がない立地が影響しているのか、1日の平均乗車人員は山手線の駅ではずっと最下位だった。2020年に高輪ゲートウェイ駅が暫定開業(本開業は25年3月予定)したことで最下位を脱したものの、2万1112人(22年、JR東日本調べ)と、順位がひとつ上の目白駅3万840人(同)より1万人近く少ない。


1970(昭和45)年の鶯谷駅南口。『甦った東京』国立国会図書館所蔵

鶯を見たことがなくても、「ホーホケキョ」というさえずりを知らぬ人はいないだろう。鶯谷の駅名は、文字通り、日本人になじみ深いウグイスがこのあたりに多くいたことに由来する。

現在、行政地名として鶯谷は存在しないが、1820(文政3)年の『根岸略図』に「ウグヒスダニ」の文字が確認できる。「上野」の左下にあり、現在の鶯谷駅とほぼ一致する。


『根岸略図』。赤丸の部分が「ウグヒスダニ」である。国立国会図書館所蔵

ただ、周辺の別の場所を「鶯谷」と記述している文献もあり、正確にどこが鶯谷だったのかは分かっていない。

鶯には複数パターンの鳴き声

1732(享保17)年刊の地誌『江戸砂子』の「根岸ノ里」の章には以下の記述がある。

根岸ノ里は、鶯の名所なり。元禄(1688〜1704)の頃、御門主様より上方の鶯を多く放させたまう。関東の鶯は訛(なまり)ありて、此所(ここ)はその卵なるゆえ、訛なしといえり


『江戸砂子』に記載された「根岸ノ里」の解説。『続江戸砂子温故名跡志』国文学研究資料館所蔵

「根岸ノ里」は、現在の鶯谷駅東側の町名「根岸」のこと。『新編武蔵風土記稿』は「東叡山(寛永寺)の根きしなるをもって名付けし」とある。寛永寺が建つ高台の崖の際(きわ=岸)の下にある、根っこような場所という意味だろう。

御門主様とは後西天皇の第6皇子・公弁法親王(こうべんほっしんのう)だ。出家したのち、1690(元禄3)年に日光輪王寺の師の座を継承するため京都から関東に下向し、寛永寺も管理する立場にあった。都で生まれ育った親王には、東国の鶯の鳴き声が田舎くさくて耐え難かったのだろうか。京の鶯を取り寄せて根岸の里に放ったという。それらが繁殖すると、訛のない鳴き声を聞かせるようになり、鶯の名所として知られるようになったというのである。

『東京下谷 根岸及近傍図』(根岸倶楽部/1901[明治34]年)にも、「文政図では徳川家霊屋下の地をウグヒスダニと記している」とある。「徳川家霊屋」とは寛永寺のことで、その下に「ウグヒスダニ」があった──と。寛永寺の下は現在の根岸1〜2丁目だ。根岸ノ里が鶯谷の地名に関係していたのは間違いないと見ていい。

ただし、親王が鶯を連れてきたという逸話は、出典が明らかでない故事を『江戸砂子』が収めたに過ぎない可能性もある。

国立科学博物館の「鳥類音声データベース」で鶯の鳴き声について調べたところ、鶯の鳴き声には「ホーホケキョ」などと聞こえるH型と、「ホーホホホケキョ」などと聞こえる L型がある。オスは成長の過程で美しく鳴くことを学び、H型、L型のさえずりを少なくとも1つずつ含む 2~5程度のパターンを持っているそうだ。

幼鳥が上手に鳴けないことを「ぐぜり鳴き」という。成長の過程で周囲の親世代の鳥の鳴き方を学習して自然に美しくさえずるようになる。

ところが京育ちの親王が鶯を放って訛を矯正したという真相不明の「噂話」が庶民の耳に入り、「さすが親王様が連れてきた鶯は違う」という、今でいうバイアスが掛かったのが真相かもしれない。

日暮里駅に近くにも「鶯谷」

一方、1826〜29(文政9〜12)年に編纂された『御府内備考 谷中之一』にも「鶯谷」への言及がある。

「鶯谷 七面坂より南の方、御切手同心組屋敷の谷なり。此の坂へ下る所を中坂といふ」


『御府内備考』では、鶯谷は谷中の中坂にあったと書かれている。東京都公文書館所蔵

中坂は現在は台東区谷中5丁目にある「蛍坂」と呼ばれる路地で、近くには江戸城大奥の裏門である「七つ口」を監督する役人・御切手同心の組屋敷があった。前掲の『根岸略図』の「ウグヒスダニ」から西に約1.5キロメートル離れており、日暮里駅や東京メトロ千駄木駅に近い。

整理すると、『根岸略図』では「ウグヒスダニ」は現在の鶯谷駅近辺にあり、『江戸砂子』では鶯谷駅の東側の根岸ノ里が鶯の名所だったといい、『御府内備考』では日暮里駅に近い中坂(現・蛍坂)が鶯谷と呼ばれていた。

これらを総合すると3つの場所がそれぞれに鶯谷と呼ばれていたのではなく、3つをつないだ比較的広いエリアが鶯がさえずる谷の通称として、江戸時代から親しまれていたのではないだろうか。

寛永寺には歴代将軍や篤姫の霊廟

鶯谷駅近隣の名所といえば、寛永寺は外せない。徳川将軍家の菩提寺として1625(寛永2)年、3代・家光によって創建され、初代住職は家康のブレーン天海大僧正だった。

寛永寺には、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の将軍と、家定の正室・天璋院篤姫の霊廟がある。以前は、事前申し込みにより、綱吉・吉宗・家定と篤姫の墓所を特別参拝することができたが、コロナ禍で休止して以来、再開していない。

それでも墓所の入り口にあたる勅額門(ちょくがくもん)に、篤姫の霊廟を解説した写真付き案内板があり、将軍と同様に宝塔が建っていると分かる。参拝の再開が待たれるところだ。

寛永寺は根本中堂も見どころだ。江戸時代は現在の上野公園噴水広場の辺りに建っていたが、1868(慶応4)の彰義隊の戦いで焼失したため、幕府が庇護していた喜多院(埼玉県川越市)の本地堂を移築して再興した。

こちらも現在、耐震工事のため非公開だが、社務所によると創建400周年にあたる2025年10月に特別法要が行われる予定であり、その際に新たに奉納される龍の天井絵とともに拝観があるかもしれないという。

寛永寺にまつわる名所をもう1つ。鶯谷界隈を歩くと、いくつもの石燈籠に出会える。例えば駅南口を出て上野公園方面に歩いて徒歩2〜3分、林光院というお寺の山門前の路傍脇にある。

将軍が死去すると、大名には燈籠の奉納が義務付けられていた。寛永寺に眠る将軍1人につき200基以上が納められたというから、かなりの数にのぼった。だが戊辰戦争の戦禍や、寛永寺敷地の縮小の過程で散逸してしまい、その一部が駅周辺に残っているのである。

上野公園の清水観音堂の石段脇、上野東照宮の鳥居脇・参道にも並んでいる。根本中堂前に置かれた銅製の燈籠は10万石以上の大名が奉納したものだという。

入谷鬼子母神と子規庵

鶯谷駅南口から徒歩3分ほどの真源寺は入谷鬼子母神の名称で親しまれている。毎年7月6日-8日の朝顔市は言問通りを車両通行止めにして、盛大に開催される東京下町の夏の風物詩だ。約120軒の業者が販売する鉢植えが並ぶのは壮観である。


昭和30年代の朝顔市。『台東区の名所と文化財』国立国会図書館所蔵

北口から徒歩3分の根岸2丁目にある「子規庵」は、俳人・正岡子規が、1894(明治27)年から1902(同35)年に死去するまで住んだ地である。

根岸は江戸期から画家や文人が居住していたことで有名だったが、その伝統を明治に入ってからも受け継いだのが子規だった。高浜虚子(たかはま・きょし)や河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら俳人が集い、俳句雑誌『ホトトギス』に携わった。

震災の影響による解体や東京大空襲での焼失などに遭ったが、土蔵に保管していた遺品は残ったため弟子たちが復元し、硯(すずり)などを展示している。


子規庵は、ありし日の正岡子規の仕事ぶりをしのばせる。(PIXTA)

子規は春の季語「鶯」を入れた句を詠んでいる。

飯たかぬ朝も鶯鳴きにけり

朝の静寂のなか、鶯の鳴き声が響く情景が浮かぶ。

【鶯谷駅データ】

  • 開業 / 1912(明治45)年7月11日
  • 1日の平均乗車人員 / 2万1112人(30駅中29位/2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れている路線 / なし

【参考図書】

  • 『駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
  • 『まるまる山手線めぐり』DJ鉄ぶら編集部編 / 交通新聞社
  • 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社
  • 『鶯谷駅名の由来考』認定NPO法人産業クラスター研究会

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