神保町はいつから本の街になったのだろうか。
「明治になって、神田に大学ができたことが大きいですね」と言うのは、神保町・けやき書店店主の佐古田亮介さんだ。「明治10(1877)年、東京大学の前身が神田一ツ橋地区に創設され、以後、神田周辺は学習院、東京外国語大学、明治大学、専修大学などの発祥の地になりました。教科書や洋書など専門書籍の需要が急増し、洋古書店が増えていったことが始まりです」
佐古田亮介さん=東京古書会館で(©nippon.com)
佐古田さんは『東京古書組合百年史』(2021年)の編さん委員長を務めた。同書を基に、明治以降の神保町の歴史をたどる。
大火・大震災が好機に
江戸時代の本屋は出版、新本・古本販売の兼業だったが、明治政府の下で次第に分業が進み、新本の取次など流通網も確立していく。明治20年ごろには、江戸時代から続いていた本屋はほぼ廃業した。
「不要になった本を売る学生や教員も多いので、新世代の古本屋が起業しました。洋書の古本屋第1号は明治10年創業の有斐閣で、その4年後に三省堂が開業しました。やがて、それぞれ出版に進出します」
今日、有斐閣は法学をはじめとする学術書、三省堂は教科書・辞書の出版で知られる(1915年に書店と出版が分離)。
明治22(1889)年、新橋と神戸をつなぐ東海道本線が全線開通。それまで汽船に頼っていた古書運搬も容易になり、東京、京都・大阪に偏在していた古書が東西を自由に行き交うようになった。
30年代には新宿区・千代田区を東西に走る靖国通りが順次整備されていく。大正2(1913)年、神保町の北側に接する神田三崎町で発生した大火で神保町が大きな被害を受けると、移転などで書店の分布が変わり、道路沿いに多くの古書店が立ち並ぶようになった。
大火は、古書店にとってビジネスチャンスでもあった。大学・専門学校など教育機関の多くが全焼したため、再建の際、図書館の蔵書をそろえなければならず、注文が殺到した。
岩波書店は1913年の大火後に開業。当初は古本を主に商っていたが、翌年には夏目漱石の『こころ』を刊行。漱石が費用を出す自費出版という形式で、装丁も自らが手掛けたという。以後、岩波は活発な出版活動を展開していく。
大正12(1923)年の関東大震災で東京は甚大な被害を受けるが、古本業界は大震災を契機に発展を遂げる。新刊書店、取次、印刷所、製紙工場などは事業再開に時間がかかったのに対し、古本の在庫は全国的に確保されていたので、大阪などから調達できたからだ。10年前の大火の時と同様に、教育機関が蔵書の再収集に乗り出したため、古書需要が急増したのである。
組合結成と戦後の古書ブーム
明治20年代後半から、古書調達のため、都内各所に業者同士の市が開かれるようになる。
「この頃には、洋本の流通量が急増し、神保町周辺には、私設の市場がいくつかできていました。次第に、全ての古書店を束ねる同業組合を作ろうという機運が生まれました」(佐古田)
紆余(うよ)曲折を経て、大正9(1920)年、「東京古書籍商組合」(現在は東京都古書籍商業協同組合=以下、東京古書組合)が設立され、組合員対象にほぼ毎日のように「古書交換会」(=市)が開かれるようになった。市での取引を通じて価格相場も形成される。
「組合が一番大変だったのは戦時下の統制経済でしょう。公定価格が導入され、古本も業者同士や客との間で決まる自由価格ではなくなり、商売が難しくなりました。店主や店員が徴兵されて、休業状態の店も相次ぎました」
やがて敗戦を迎える。東京は度重なる空襲を受けていたが、奇跡的に神保町は被害を免れたため、復興は早かった。
戦後はインフレ進行を阻止するための預金封鎖・新円切り替えなど、経済の大変動があり、骨董や古書を売却して新円を入手しようとする人たちがいた。特に、GHQ(連合国軍総司令部)主導の民主化を通じて、収入が激減した華族や富豪たちが放出した国宝級の品や古典籍などが大量に市場に流れ込んだ。一方、戦後の教育改革で1949年までに200近い新制大学が開設され、巨大な古書需要を生んだ。
ネット販売に助けられた「不要不急」の古本屋
佐古田さんによれば、現在のようにそれぞれの店が専門書店化したのは、高度経済成長が終わったあたりからだ。「同業者が百数十軒集まっている地域では、分野を特化しなければ生き残れない。私は古本屋を隙間産業だと考えています。他にはないものを扱うことが強みになるのです」
バブル経済崩壊までは、古書も含めて出版業界の売り上げは「右肩上がり」だったと言う。「90年代以降、インターネット社会の到来でアマゾンなどオンラインストアが台頭し、売り上げは急速に落ち込みます。特に新刊書店には大きな痛手でした」
1990年、大規模リサイクル店のブックオフが創業し、全国展開を進める。しかし、「ブックオフは結局あだ花的存在でした」と佐古田さんは切り捨てる。「扱う品は古本だけではないし、そもそも本の専門知識がない。われわれは1冊1冊を査定して価値を決めます。ブックオフ で過小評価されている本を見つけて、自分の店で高く売る組合員もいますよ」
「戦時中を除けば、業界の大きな危機はバブル崩壊後のネットの普及です。ただ、古書組合の対応は早かった。このままでは後継者も育たず、商売が先細りになるだけだという危機感が募っていたところだったので、1996年には『日本の古本屋』サイトを立ち上げることができました。多くの古書店が参加して、順調に継続しています」
「コロナ禍では、ネット販売がなければ立ち行かなかった。古本屋は“不要不急”とされて政府の休業要請の対象になり、神保町がシャッター街化した一方で、『日本の古本屋』経由の受注は伸びたのです」
古書市と即売会
都内にある3つの古書会館は、組合員対象の交換会(市)の場だ。
神保町に隣接する小川町の東京古書会館では、月曜から金曜まで、曜日ごとにマンガなどのサブカル系、和書から洋書まで、さまざまなジャンルの市が開かれている。
東京都古書籍商業協同組合制作のポスター
「一般向けの『即売展』も、ほぼ毎週金曜、土曜に開催されます。常連さんは、開場1時間前から並びますよ」(佐古田)
神保町では毎年、春と秋に古本市が開催される。なんといっても街が一番にぎわうのは、10月から11月にかけての「神田古本まつり」だろう。靖国通りの歩道に露店が出現し、約100万冊の古書が並ぶ。
古本を扱う面白さ
佐古田さんは、高校卒業後、明治時代創業の老舗・一誠堂書店で働き、1987年に独立して近代文学を主に扱う「けやき書店」を開業した。
「無頼派と呼ばれる作家が好きで、当初は太宰治、坂口安吾、織田作之助らの作品を中心に集めていました。今はネット受注もしていますが、一誠堂時代に学んだ目録販売に重きを置いています」
目録は、個人や大学、コレクターなどに送るカタログで、著者、出版社や価格、内容などの情報に加え、写真図版が掲載されることもある。明治時代から続く販売方法だが、現在ではネットに頼る書店が増え、目録を作るのは少数派だという。それでも、「時間とお金もかかる」という作業をやめるつもりはない。年に4回発行する目録を一刻も早く見たいと催促する顧客もいるという。
「本が好きじゃないと絶対に続けられない」という古本屋の面白さはどこにあるのだろうか。
「常に発見があることです。例えば、同じ初版本なのに、なぜか見返しの色が違ったりする。多分、紙が足りなくなり、急きょ違う紙を使用したなどの理由が考えられます。こうしたイレギュラーな本に、高値が付くこともあります」
「とにかく、何に巡り会うか分からない面白さがある。太宰がすぐ上の姉に送った署名入りの本を入手したこともありますが、特に高揚したのは、安吾の『白痴』の生原稿ですね。ただし、一度手にしたいと思う気持ちは強くても、手放したくないという愛着は持ちません。必ず買い手を見つけます」
「市で競り合いになり、価格が何百万、何千万になる本もありますが、本当に珍しく貴重な本は、めったに目録に乗らないし、市にも出品されません。コレクターが亡くなったり、事情があって手放したりする際は、懇意の本屋を通して別のコレクターに直に渡るからです」
「大きな商売をしたければ、上客をつかむことが一番大事」だと言う。
若い世代が参入しやすい
古書業界に将来の展望はあるのだろうか。
「廃業する人もいれば、参入する若手もいるので、新刊書店のように激減することはありません」と佐古田さんはきっぱり言う。
「昔は古物商許可証の取得には実店舗が必要でしたが、今はネット受注だけでも商売ができるので、若い人たちが参入しやすい。組合が時折開催する古本屋開業講座は、いつも満席になります。古本の専門知識は必要ですが、ネットでも学べる時代ですし、意欲さえあれば次第に身に付くはずです」
近年では、カフェを併設したり、(店舗の棚を個人やグループにレンタルする)シェア型書店を開設したり、新しい試みが増えている。
「その人に合ったやり方でいいと思います。時代とともに変わっていって構わない。変わらなければ、古本業界に未来はありません」
参考サイト
- 「日本の古本屋」
- 「BOOKTOWNじんぼう」
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