派閥政治は必ずしがらみが出てくる
塩田潮:3年半前の2020年9月、安倍晋三元首相の退任による後継選出の自民党総裁選挙に、名実共に無派閥で出馬して勝利し、1955年11月の自民党結党以来、初めての「完全無派閥首相」の誕生、と注目を集めました。首相在任中の全期間、派閥とは無縁で、退任後もその方針を貫き、自民党の伝統といわれてきた派閥政治とは最も距離の遠い政治リーダーという評価が定着しています。
2021年10月に首相を辞任し、岸田文雄内閣が発足しましたが、2年余が過ぎた2023年11月から、派閥パーティー収入の還流による裏金問題が露見し、東京地方検察庁特別捜査部による事情聴取・捜査も行われました。政権与党の自民党を直撃した「派閥とカネ」の問題に対する国民の批判の目は極めて厳しく、マスメディアの調査で、2023年12月以後、内閣支持率、自民党の政党支持率とも、2012年12月の政権復帰以後、最低の水準に沈んだままです。
現在の自民党の状況と問題点をどう捉えていますか。ここをこうしなければ、と考えている党再生のポイントはどんな点ですか。
菅義偉:私は、いろいろな人から「派閥を持ったらどうだ」と言われてきましたが、作りませんでした。むしろ、やはり派閥は解消すべきだという考えを貫いてきました。今、政治資金パーティーの問題を契機として、派閥解消がテーマになっています。派閥に所属していると、客観的な判断ができないしがらみみたいなものが必ず出てきます。だから、私自身は「派閥を解消することが政治改革のスタート」という思いで、解消をしっかり進めていきたいと思います。派閥解消と同時に、私たち自民党は、原点に立ち返らないといけない。
塩田:原点というと、「結党の原点」「党改革の原点」「与党復帰の原点」など、さまざまな受け止め方がありますが、立ち返るのは、どの問題のどういう原点ですか。
菅:政治改革に取り組んだリクルート事件のときです。
塩田:1988年6月に発覚した江副浩正・リクルート社長(当時)による未公開株式の譲渡が発端となって、自民党の派閥のトップだった中曽根康弘元首相、当時の竹下登首相、安倍晋太郎幹事長、宮沢喜一蔵相(後に首相)の各秘書や、与野党の大物政治家、中央省庁の事務次官、大手新聞社の幹部、学者、評論家などへの株譲渡が次々と明らかになり、自民党は「派閥総崩れ」となりました。その影響で、翌1989年には、竹下内閣崩壊、参議院選挙での初の与野党逆転による「衆参ねじれ」の発生、さらに1993年8月には、政権交代によって、自民党は初の野党転落という軌跡をたどりました。
菅:リクルート事件のときも、派閥解消をうたい、政治改革に取り組んだのですが、結局、派閥を解消することができませんでした。それがまさに今回、問題となっています。やはり派閥解消がスタート地点だという認識の下に、しがらみのない政治を実現することが大事だと思っています。
塩田:今回は政治資金規正法が定める政治資金収支報告書への不記載が次々と表面化し、パーティー方式による集金や資金還流など、派閥の資金システムが問題となっています。もちろん派閥解消を実現して派閥政治の根を断つことが重要ですが、派閥解消だけでなく、政治資金の公開を徹底しなければ、国民の疑惑は消えないのではないかと思います。政治資金規正法は、政治資金に関する情報公開法という面があると捉えていますが、国民の厳しい批判は、政治に携わる人たちが政治資金規正法を守らず、政治資金の公開を怠っていると見ている点も大きいのでは。
菅:私たちの政治活動の収支は当然、政治資金規正法に基づいて報告書に記載し、公開しています。そこはそれぞれの議員一人一人が責任を持って対応していくべきです。今回の派閥の問題では、記載を怠り、法律に違反してしまった。
自民党離れは深刻だ
塩田:最近、自民党の党員数が3万人も減ったという報道もありました。国民の自民党離れは想像以上では、と思いますが、どう受け止めていますか。
菅:私もそこは深刻だと思っています。私の選挙区(神奈川2区。横浜市西区・南区・港南区)は都市部ですから、かつてもいろいろな出来事があったとき、例えば1976年に新自由クラブが結党されたときとか、一挙に選挙の展開が変わりました。
塩田:結党から68年4カ月余りが過ぎましたが、自民党は歴史的に見ても、今、大きな危機に直面していると映ります。長く派閥の弊害や問題点を訴えてきたこれまでの姿勢と方針を踏まえて、ここで危機克服のために先頭に立って行動を、という考えはありませんか。
菅:自民党は厳しい状態にあります。ここで政治改革をしっかりやり遂げていくことが大事です。派閥解消が改革のスタートラインであり、国民の政治不信を取り除くために、私も力を尽くしたいと思います。
(撮影:尾形文繁)塩田:自民党への大逆風の中で、今年の7月8日、安倍元首相が暗殺で死去して2年を迎えます。首相退任後、亡くなるまで会長を引き受けていた旧安倍派が、今回、「派閥とカネ」の問題で最大の疑惑の対象として取り上げられるという事態となっていますが、一方で、首相として2012年12月から2020年9月まで、7年8カ月余という史上最長の連続在任記録を残し、長期にわたって政権を担ったという実績があります。2期目の安倍内閣では全期間、官房長官として政権を下支えしたわけですが、今、改めて振り返って、政治指導者としての安倍元首相と安倍政権の評価について、どう見ていますか。
安倍元首相の功績とは?
菅:私は官房長官でお仕えして、一言でいえば、リーダーシップと改革。これに尽きるのかなと思いますね。
経済では、安倍政権の発足前の2012年6月には、日経平均株価の終値が一時、8300円を割りました。雇用情勢も、働きたいけど働くことができない厳しい状況だったと思います。そうした中で、安倍総理は「大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略」というアベノミクスの3本の矢を掲げて政策を実行し、経済は回復しました。私はあの時点でデフレは終わったと思っています。雇用も良くなりました。
外交・安全保障では、我が国の置かれている実態、取り巻く状況を直視し、やらなければいけない課題に総理大臣として取り組まれた。特に2015年9月に成立・公布した平和安全法制は、日米同盟の機能を確かなものにして、国民の命と平和な暮らしを守り抜くためにどうしても必要な法律だったと思います。ロシアがウクライナに侵攻して現在もああいう状況になっていますが、これを見ると、あのときにあの法律を作っておいて本当によかったと思っています。
同時に、「自由で開かれたインド太平洋」構想を2016年8月に政府の外交方針として提唱された。かつての日本の政治家で、これだけ世界の全体像を考えて外交・安全保障に言及した人はいなかったと思います。米国や多くの同志の国と一緒になって推進するという一つの方向性を示した。実際にそれを実行していくために、日米豪印のクアッド(QUAD)という枠組みを造られた。外交・安全保障も含めて、偉大な指導者だったと私は思っています。
塩田:以前のインタビューで、「2007年の第1次安倍内閣の終結から5年が過ぎた2012年の8月15日に安倍さんと会って、『総裁選に出馬してもう1回、政権を』と懸命に説得した」という舞台裏をお聞きしました。
菅:第1次政権のとき、安倍さんは病気で退陣され、入院・療養されました。しかし、私はこれだけ外交・安全保障、内政も含めて指導力のある改革意欲の強い政治家はいないと思っていました。そのときから、日本のために、いつか、もう一度、安倍政権を復活させるチャンスを狙っていました。
塩田:2012年の夏は民主党政権で、野田佳彦首相が6月15日に消費税増税について民主党・自民党・公明党の3党合意に踏み切り、26日に衆議院で増税法案を可決させました。その後、参議院での採決を前に、8月8日に野田首相は当時の谷垣禎一自民党総裁と会談し、そこで「近いうちに国民の信を問う」と述べました。
菅:その年の8月、共同通信の世論調査が出たんです。今でも鮮明に記憶していますが、安倍さんは本命と言われた石破茂さん(後に自民党幹事長)、石原伸晃さん(当時、幹事長)に次いで、あまり差のない3番手でした。その数字を見て、安倍さんが総裁選に出れば、戦える、勝てる、と思いました。それで、そこから自信を持って安倍さんに出馬を勧め、口説き落としたのが8月15日でした。
塩田:安倍政権の取り組みについて、政権発足時の株価の話が出ましたが、日経平均株価の8300円割れから11年8カ月余りが過ぎた今年の2月22日、1989年12月の記録を34年ぶりに更新する史上最高値が出て、その後、終値で4万円の大台も突破しました。現在の株高の要因については、いろいろな見解がありますが、長期的に見て、12年前から取り組んできたアベノミクスの成果という面も大きいとお考えですか。
菅:もちろん私はそう思っています。アベノミクスについては、いろいろな意見がありますが、デフレから脱却する、雇用を生み出すということに、安倍総理は自信を持って政策を進め、結果を出したと思いますし、私も全面でバックアップさせてもらいました。
2012年暮れの第2次安倍政権発足以来、日経平均株価は2015年12月に2万円を超え、2017年6月以後はずっと2万円前後で推移するようになりました。さらに、私が2020年9月に政権を担って、アベノミクスを引き継いで、株価は3万円を超えました。
〈編集部・註 日経平均株価の終値は安倍内閣時代の2015年12月1日に2万0012円、菅内閣時代の2021年9月8日に3万0181円を記録した〉
当時、後のウクライナ侵攻は予想できなかった
塩田:安倍政権の外交・安全保障で、一つ知りたいのは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領との関係です。菅内閣が終わった後、2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まりましたが、安倍内閣時代、安倍元首相は、おそらく将来の北方領土問題の解決を視野に入れて、プーチン大統領との接触・折衝に努力していたと思います。プーチン大統領とのやり取りの中で、後のウクライナ侵攻という展開を予感・予想するようなことはありませんでしたか。
菅:当時は全く考えられなかったですね。いきなりですから。世界の国々で、そこまで正確に予測したところはなかったんじゃないでしょうか。侵攻開始から2年が過ぎました。私が辞めた後に起こったことですけど、私の政権のときまでは、そんな雰囲気は全くなかったですね。
結局、世の中には、そういう国があるということですね。ですから、平和安全法制を作っておいて、日本は本当に良かったと思います。
塩田:その安倍元首相が亡くなった2022年7月8日、担ぎ込まれた奈良県橿原市の奈良県立医科大学附属病院に駆けつけたと報道で知りました。
菅:まさかと思いましたよね。現実に撃たれてそうなったのを自分で認めるのにちょっと時間かかりましたね。とにかく生きていてほしいと、それだけですよ。
塩田:「同じ空気を吸いたい」と語ったと報じられました。
菅:あのとき、沖縄の参議院選挙の応援で、羽田空港に行く途中だったんです。撃たれたということで、途中で車を止めて、情報を収集しました。しばらくして、党が遊説全体を取りやめる方針を決めたので、奈良に行く決意をしました。確かその後のテレビ出演のときだったと思いますけど、「同じ空気を吸いたかった」という話をしました。
私は安倍さんが持病で退陣された後、引き継ぐ形で1年間、総理をやりました。安倍総理の政策を引き継ぎ、さらに「脱炭素社会」や「不妊治療」などに取り組みました。
振り返って見れば、安倍総理のスタイルは非常に偉大なものでした。安倍さんを失ったことは、言葉で言い尽くすことができない、非常に大きな痛手です。そういう意味で、残された者として、失われたものを再構築していくことが大事かなと思います。
塩田:その2年前の2020年9月に安倍内閣を引き継ぐ形で、官房長官に続いて首相に就任しました。周知のとおり、新型コロナウイルスによる感染症の世界的な大流行のまっただ中でした。今から振り返って、首相在任の1年間をご自分でどう評価・総括していますか。
コロナ対策に動く日本人に感嘆
菅:私は総理大臣になろうと思っていなかったし、なれるとも思っていなかった。ただ、我が国がかつて経験したことがない新型コロナの感染拡大に遭遇しているとき、安倍さんが体調を崩して退陣をせざるをえない状況となった。私は官房長官として、新型コロナの感染拡大が顕在化し始めたときから、例えば中国の武漢からの邦人の帰国とか、「ダイヤモンド・プリンセス号」が約3600人の乗組員と乗客を乗せて寄港した際の対策を陣頭指揮した経験もあり、安倍さんが辞められた後、コロナ禍の非常事態でもあり、私がやらざるをえないのかなという思いでしたね。
そういう中で総理に就任しましたので、やはりコロナ対策が私の使命でしたし、最優先でした。内外の情報を分析し、最も効果的なのはワクチン接種だと判断し、「1日 100万回接種」を総理会見で宣言して、関係者総動員で取り組みました。できるわけがないとか、いろいろ批判されましたが、結果として、1日 100万回をはるかに超えるスピードで接種が進んで、厚生労働省によれば、65歳以上は10万人が感染を免れ、8000人の命が救われました。
私は日本人は本当にすごいと思いました。霞が関の縦割り行政を排除して、政府の中では、できることをすべてやる態勢を整えましたけど、実際はやはり全国津々浦々の医療、介護の関係者、エッセンシャルワーカーの方々、そういう方々の協力ですよね。本当にすごかった。このワクチン接種によって、新型コロナは事実上、収束させることができたんだろうと思っています。
塩田:首相在任中、もう一つ、大きな判断は、安倍内閣の下で「1年延期」を決めた東京オリンピック・パラリンピックの実施だったと思います。残念なことに、関連して後に刑事事件が発覚するという事態となりましたが、首相として、1年延期後の実施について、どういう姿勢と方針で臨んだのですか。
東京五輪の開催中止は全く考えなかった
菅:五輪は東京都が立候補し、安倍政権が応援をして、招致したイベントです。確かにコロナとぶつかりましたけど、コロナへの対応策には自信がありました。当時、7割近い人が開催反対と答えたという世論調査の結果もありましたけど、57年ぶりに日本で開催される五輪ですから、我が国の将来を考えれば、どんなことをしてもやり遂げるべきだと思っていました。
また、私はずっとインバウンド拡大の旗振り役をやってきました。五輪を開催すれば、世界中の約40億人がテレビやパソコン、スマホなどで五輪を見ます。コロナの中でも安全に五輪を開催する姿を世界中の人々に知っていただけます。そうしたことを考えたときに、招致に成功した五輪をやめるという考えは全くありませんでした。結果として、開催して本当に良かったと思います。選手の方々をはじめ、多くの方々からお礼を言われましたし、海外のメディアでも高く評価されたと聞いています。
塩田:政権担当は1年の短期に終わりましたが、具体的な政策課題で、いくつも新しい取り組みを打ち出したのが記憶に残っています。
菅:私がやったことでは、例えば携帯電話料金の値下げがあります。ある意味、国民から見て当たり前の政策だと思います。結果的に、この3年間で何と6500万人以上の方々が、新しい料金体系に乗り換えているんですね。総額で1兆3000億円ぐらい、料金が軽減されているといわれています。
ほかにも、長年、未解決だった課題に決着をつけようと思って取り組みました。その一つが不妊治療への保険適用です。少子化が問題になっていますが、子供を産みたいけど産まれない人に対する不妊治療は、料金が高すぎるので、保険適用にしてくれという声がずっとありました。しかし、厚労省は「病気ではないから、保険はダメ」という対応でした。私は2020年9月の自民党総裁選でこれを公約に掲げました。政権を担って、改めて厚労省に検討を指示し、2022年4月から保険適用が実現しました。
それと、私はカーボンニュートラル、脱炭素社会の実現にいつか取り組みたいと思っていたんです。総理になって初めての国会での所信表明演説で、各方面の抵抗を気にせず、「2050年カーボンニュートラル」宣言を出しました。
塩田:2020年10月、政権担当後、初の臨時国会で、成長戦略の柱に経済と環境の好循環を掲げて宣言した2050年のカーボンニュートラルは、50年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにするという内容で、脱炭素社会の実現を目指すと打ち出しました。
菅:世界の潮流の中で日本が出遅れて、ルールを決めるときに先頭に立って参加できなくなるのを一番、心配していました。そこは間に合ってよかったと思っています。口だけでなく、政府の本気度を示すため、研究開発とか実証実験のために2兆円の基金を作りました。それで今、日本でも、これから先の主流になるいろいろな技術の研究開発や実証実験に企業が本腰を入れるようになってきた。その中で、車もガソリンから電気にとか、水素とか、ようやくそういう動きになってきました。そして、再エネの中でも成長が期待される洋上風力は、再エネ海域利用法に基づくプロジェクトが、8海域・350万キロワット規模でスタートしています。
〈編集部・註 菅内閣時代の2020年12月、政府は日本の洋上風力発電の導入目標を大幅に引き上げて、2030年までに1000万キロワット、2040年までに浮体式洋上風力発電も含めて3000~4500万キロワットを導入目標とすると打ち出した〉
塩田:もう一つ、菅内閣での取り組みでは、デジタル庁の創設があります。庁新設を決め、2021年9月1日に発足しました。
デジタル重視がTSMCの九州誘致につながった
菅:これは2020年9月の総裁選で「1年でデジタル庁を作る」と約束して、そのとおり実現しました。実は、霞が関を見渡すと、国全体のデジタル化を進めるための司令塔機能がなかった。コロナの大流行が発生したとき、陽性者の数を迅速に集約することができなかったり、コロナ対策で現金給付を行うときも時間がかかったり、いろいろ支障を来しました。これを見て、全体のシステムを見直すために、司令塔としての機能を持つデジタル庁を作るべきだ、と思っていました。
デジタル化に関しては、ほかに半導体の問題があります。今、世界最大の半導体メーカーのTSMC(台湾集積回路製造)が熊本県菊陽町に工場を造っていますが、半導体は社会全体のデジタル化にとって、必要不可欠なんです。日本は1980年代、この分野で世界を席巻していましたが、1990年代になってどんどん世界でのシェアを失い、8割が輸入となった。私の内閣で、半導体については国が前に出て対応することを閣議決定しました。そして、TSMCの1号と2号の九州誘致に成功した。今、九州全体の景気が底上げされるくらい、経済効果が出ているみたいですね。
塩田:ほかに、政権担当中にやりたいと考えていたプランや構想はありませんか。
菅:私はもともと横浜市議会議員出身で、また秋田県の生まれということで、地方創生に力を入れてきました。やはりそこですね。外交・安全保障で心残りなのは中国です。近隣ですから、いろいろな問題があってもしっかり向き合い、つきあっていかなければいけない国だと思っています。
塩田:現在の日本の状況を見て、歴史の中で今の日本はどういう問題点を抱えていて、今後、政治は何をしなければいけないと思いますか。
菅:政治はやっぱり常に改革意欲を持って進んでいかなければだめだと思いますね。今、私どもが直面しています政治改革はもちろんですけど、先ほどの半導体についても、いつの間にか8割も輸入する状態になっていたわけです。政治はまず実態をしっかりと見極めて、必要な改革を絶えず行っていかなくてはいけません。
塩田:長く政治の世界で活躍したリーダーの方々にインタビューで一言、いつも尋ねることにしている質問があります。「政治が果たすべき最大の役割や使命は何か」という根源的な問いです。その点をどうお考えですか。
国民の食いぶちを作るのが仕事
菅:私の「政治の師」は梶山静六さん(元自民党幹事長、元官房長官)ですが、私が衆議院議員に初当選してあいさつに行ったとき、「おまえは大変なときに政治家になった。人口は減少して、経済はデフレだ」と言われた。あの人は口が悪いですから。「国民の食いぶちを作るのがおまえの仕事だ」と言っていました。ですから、私はいろいろなところで、「国民の食いぶちを作るのが仕事」と話をしています。
カーボンニュートラルは、まさに食いぶちだというのが私の強い信念で、事前に誰にも相談しないで、国会での所信表明演説で宣言したのです。
塩田:国民の食いぶちという点で、現在の日本はいい時代ですか、厳しいときですか。
菅:これだけ人口が減少していますから、厳しくなってきています。それに耐えられる社会を作り上げる必要があります。
塩田:マスメディアの世論調査を見ていて、大きな違いがある、と気づいた点があります。時事通信の2023年10月の調査で、この時点では岸田内閣の支持率は26.3%でしたが、年代別の支持率を見ると、18~29歳は10.3%、30歳代は18.1%となっていました。安倍内閣時代、18~29歳と30歳代の支持率はおおむね30%超で、現在は若い世代の支持が大きく後退しているようです。今の自民党にとって、かなり衝撃的な事態ではないかと思います。
菅:かつて安倍さんは、「失敗してもチャンスが2回あるような社会を造ると言ってきたから、若い人が支持してくれるのでは」と言っていました。1度目の総裁選のときに再チャレンジ議員連盟を作って以来、そういう取り組みを進めていました。やはり改革を進めていこうという強い意志がありましたね。
塩田:国民も含めて、今の日本で、気をつけなければいけない点、大事にしなければいけないこと、あるいは欠けていると気づく点はありますか。
菅:常に改革を進めていく、前を向いて歩んでいくことが、私たちにとって大事なことではないでしょうか。先ほども申し上げましたが、1日100万回のワクチン接種を実現する過程をはじめ、さまざまな場面で、日本国民は素晴らしいと再認識させられました。やはり日本に生まれてよかったと思える、若い人たちが将来に向かって夢を持てるような国造りが大事だと思っています。
塩田:世界の中で、これから日本が進むべき道、果たすべき役割という点は。
「自由で開かれたインド太平洋」が日本の進む道
菅:安倍さんが掲げた「自由で開かれたインド太平洋」です。日本が先頭に立って、同盟国の米国やインド、オーストラリアといった同志国とも連携しながら、アジアや、より広い地域において、自由、民主主義、法の支配に基づく秩序をさらに強化していく。この過程では、やはり米国との連携が大事だと思います。
塩田:最後に一つだけ、健康法で心掛けているのは。
菅:歩くことですね。毎日、30分ぐらい、時間があったら、体を動かすことが大事だと思っています。それと食事の量も気をつけて、食べすぎないようにしています。
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