2016年の夏、趣味のサイクリングに出かけた自民党元総裁・谷垣禎一氏(当時71歳)は自転車事故で転倒し、重傷を負う。

けがの後遺症により政界引退を余儀なくされ、首から下が不自由になるという重傷を負いながらも、リハビリに励み続け、現在は車いす生活を送り、2024年3月に79歳になった。

著書『一片冰心 谷垣禎一回顧録』(扶桑社)は、2022年に産経新聞で連載された「話の肖像画」を加筆のうえ、再構成したもの。出生、政治家人生の始まり、そして現在の様子までを谷垣氏自身のインタビューからまとめた一冊だ。

そこから自転車事故に遭い、政界引退を決断するまでの過程を一部抜粋・再編集して紹介する。

知事選のことが頭をよぎった

《二〇一六年七月十四日、東京都知事選が告示された。自民党の衆院議員でありながら党の了解を得ずに出馬表明した小池百合子元防衛相と、自民、公明両党などから推薦を受ける増田寛也元総務相が立候補し、十七年ぶりの保守分裂選挙となった。谷垣氏ら自公幹部は増田氏の応援に入った》

小池さんは出馬表明の前から、どうも知事選に出てしまいそうな雰囲気がありました。

このまま出させてはいけないということで、当時の茂木敏充選対委員長に「一緒に説得に当たってください」と言われ、小池さんに出ないよう迫ったこともありました。

だけど、彼女はどうしても「出ない」とは言わなかった。そして実際に出馬してしまったんですね。

《十六日朝、気分転換に趣味のサイクリングに出かけた。この日は土曜日。告示後初めての週末だった。

普段は走行に集中していたが、終盤、皇居周辺で知事選のことが頭をよぎった》

普段は自転車に集中していたが、知事選のことが頭をよぎったという谷垣氏(画像:イメージ)
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あの日はどこをどう走ったのか、よく覚えていませんが、最後に皇居前に出ました。

乗っていたのは、プロの選手なら時速八十キロぐらい出せる自転車。

でも、私は若くもないし、技術者でもないので、五十キロ以上は出さないようにしていました。皇居周辺では三十キロ弱で走っていたのではないかと思います。

自転車に乗るときは考え事をしてはいけません。集中しないと危ないのです。それなのに、あの日は考え事をしてしまったんですね。

後から考えると、桜田門の近くにある段差からドンと落っこちたのだと思います。けがをした瞬間のことは全然覚えていません。

気が付いたときは病院の集中治療室

落車した後、とにかくまず座ろうと思ったんだけど、自分では動けないことに気づきました。

そのとき、ジョギングをしていた女性に「動かないで!私は医療関係者です」と止められた記憶が、かすかに残っています。

選挙期間中に自転車に乗ってけがをするなんて、全く、不徳の致すところです。

《次に気が付いたときには、都内の病院の集中治療室で横たわっていた。

頸髄を損傷し、思うように体を動かすことができない。一時は気管切開をしていたため、口頭で会話をすることも難しかった》

集中治療室には一カ月半ぐらいいました。結構な大けがですよね。

最初は呼吸のために、のどに穴をあけてパイプで空気を通していました。そうすると声を出せないので、意思疎通するのに非常に不便に感じました。

体を動かせないばかりか、口頭で指示を出すことさえできないのですから、とても仕事ができる状況ではありませんでした。

文字を目で追って指示を出した

《八月三日には内閣改造・党役員人事を控え、当時の安倍晋三首相(党総裁)から幹事長を続投させる意向を示されていた。

安倍氏は持論を封印してでも党内をまとめ上げる谷垣氏に全幅の信頼を寄せており、事故が起きた後も、谷垣氏と面会した上で続投が可能かどうか見極めようとしていた》

とにかく安倍さんに、続投の要請をお受けできる状況ではないと伝えなければいけない。

秘書でもあった弟に、私の顔の前で五十音表を持ってもらい、文字を目で追って指示を出しました。

正確な内容は覚えていませんが、「すぐに官邸に連絡して辞めさせていただくように」という趣旨のことを伝えたと思います。

面会は固辞しました。「これじゃだめだ」と思ってもらう効果はあるかもしれませんが、とても対応できる状況ではなかったのです。

《谷垣氏からのメッセージを受け取った安倍首相は、やむなく方針転換した。八月三日、谷垣氏の後任に就いたのは、それまで総務会長を務めていた二階俊博元幹事長だった》

カレーもビールも…刺激の強さに驚く

《二〇一七年九月、次期衆院選に立候補せず、政界を引退するとのコメントを発表した。当時の安倍晋三首相が衆院を解散したのは、その三日後だった》

当時はまだ初台リハビリテーション病院に入院中でしたが、どうも選挙が近いということになって進退について考え、引退を決断しました。出馬すれば当選はできるかもしれない。

だけど、この体でできることには限界があります。今までやってきたことと、これからできることとの落差が激しすぎると思いました。

まだ五十歳ぐらいだったら、障害者福祉のために国会議員を続ける選択肢もあったかもしれませんが、年も年(当時七十二歳)でしたしね。

《リハビリに取り組む中で、日常生活においてもいくつもの落差を感じた》

けがをしてから血圧が不安定になり、立ち上がると血圧がすうっと下がって意識が遠のくことが長い間続きました。

ちょっと座っているだけでも血圧が八十ぐらいになってしまうので、座って食事ができるようになるまでだいぶ時間がかかりましたね。

箸も重たく感じられ、なかなか上げられませんでした。

味覚にも変化がありました。

以前は相当辛い物を好んで食べていたんですが、入院してしばらく辛い物を食べないでいたら、病院で食べる普通のカレーライスがとてつもなく辛く感じられました。

納涼会で一本だけ出された小さな缶ビールも、「ビールってこんなに刺激の強い飲み物だったかな」というぐらい、とにかく刺激が強くて。

以前は水のごとく飲み干していたけれど、飲酒初心者に立ち返りましたね。

《数々の落差を体感し、自身が置かれている状況を少しずつ把握していった。努力の方向性を見いだすまでには、長い時間を要した》

障害を負って知る「自助」と「公助」

健常者のころの自分についてはある程度わかりますが、障害を負った自分についてはわからないことが多いのです。今の自分の能力で何ができるのか。どんな努力をすればいいのか。

どこまで苦しさに耐えられるのか。そういったことをつかむまでが、相当大変なんですね。それが、われわれ障害者にとっての問題点なのです。

また、状態は日々違います。例えば、春先に「だいぶ体が軽くなってきましたね」とトレーナーに言われたとしても、リハビリの成果の表れとはかぎらないんですよ。

だいたい暖かい季節には体が軽くなり、寒い季節には重くなるものなんです。

そういうことも、一年目にはなかなかわからない。二年目、三年目と繰り返してわかってくるんです。

目標は、他人から与えられるより、自分でつくるほうがいい。

生活保護や介護保険などの「公助」の仕組みがいくら整っていても、まずは生きていく目標を自分で抱けなかったら、公助もへったくれもないと思います。

だけど、実は何を目標にしたらいいか、なかなかわからないんですよ。一口で「障害者」といっても、抱えている困難は人によって全然違う。

同じ「脊髄損傷」でも、悩みは人それぞれなのです。

私みたいな七十代後半の人間はいかに体調を維持していくかを考えるわけですが、十代で脊髄を損傷したような子は、これからの人生をどう生きていこうか悩むだろうと思います。

親御さんも悩まれるでしょう。孤独感にも襲われる。

「自助」というと簡単だけど、自分がどんな目標を立てて、どんな努力をしたいのか、障害を負った人が自分なりに答えを探せる体制づくりが必要だと思います。

2018年に公の場に姿を見せた谷垣氏

《二〇一七年末、約一年五カ月におよぶ入院生活を終えて退院した。翌年十月には当時の安倍晋三首相と官邸で面会し、二年三カ月ぶりに公の場に姿を見せた》

人前に出られるようになったら、まずはともあれ、安倍さんにおわびしなければと考えていました。

幹事長としてある程度信用していただいていたのに、私が不注意でけがをして、安倍さんは相当気を揉まれたと思います。

「谷垣は俺に幹事長続投を約束してくれたはずだ」という気持ちがおありだったに違いありません。

大島理森元衆院議長にも議長公邸で会い、「これからも気を付けて」と声をかけてもらいました。

『一片冰心 谷垣禎一回顧録』(扶桑社)

谷垣禎一
1945年生まれ。東京大学法学部卒。弁護士を経て、1983年、衆院議員初当選。以来、12回連続当選。京都5区選出。1997年、国務大臣兼科学技術庁長官として初入閣。その後、財務相や国交相などを歴任。自民党内においても政調会長などの要職を務め、2009年9月、総裁に就任。3年にわたる自民党の野党時代を支えた。2012年12月には第二次安倍内閣で法相に就任、また2014年9月からは総裁経験者としては異例ながら幹事長を務めた。2017年9月政界を引退。

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