昨今、あちこちで民主主義の危機という言葉が聞かれるようになった。

日本では、いわゆる「裏金づくり」に象徴されるような、政党の腐敗が問題とされている。米国では、トランプ前大統領の言動が、司法制度、議会制度、そして選挙制度自体への不信をあおっているとの見方もある。西ヨーロッパでは、極右政党や、地域利害を強調する地域政党の台頭が危険視されている。

しかし、そもそも民主主義の本質とは何なのか。

しばしば、民主的な政治形態を、他の政治形態と比較すれば、民主主義の方がまだまし──ということが言われてきた。ウィンストン・チャーチルや、ジャワハルラル・ネールは、そうした見解を示している。しかし、この見方だけでは、民主主義の真髄とは何か、何を守るべきなのかは、判然としない。

一方、民主主義を、制度的なものでなく政治的運動ととらえ、自由、平等といった価値の維持、実現のため不断に努力してゆくことが民主主義だという意見もある。ジョン・ケネディや、フランクリン・ルーズベルトは、そうした趣旨の意見を述べている。

しかし、一般国民による選挙や、三権分立制度が民主主義の根本なら、日本も米国も西欧諸国も、そうした制度自体は根をおろしているはずだ。それでも、民主主義の危機が叫ばれるのは、そうした制度だけでは、民主主義がうまく働かないという心理が社会に広がっているからではないか。民主主義を形作る要件はそう単純ではない。

ここで、モハンダス・ガンジーが言った言葉が思い出される。ガンジーは、民主主義のもとでは、最も弱い人でも、最も強い人と同じ機会を持ち得るところに、その価値があるとの趣旨を述べている。権力、金の力、組織の力に頼れない人々の声が尊重されてこそ民主主義だという意味であろう。

カネまみれ、世襲まみれ、コネまみれともいわれる日本の政界に対して、「清く、貧しく、真面目に」生きる人々の声が、しっかり届くようにするためには、政党の改革や政治家の自戒も必要だが、国民自身が、金の力や権勢に頼るのではなく、自ら共に声を挙げなければなるまい。

ところが、「与党、野党を問わず、今の政界で声を挙げても無駄だ、さりとて、革命的変革を唱える若い政治家も、言葉だけが踊っている」と、思いわずらっている人が案外多いのではないか。そうとすれば、やはり、そうした国民の思いを払拭(ふっしょく)させることのできるような、清貧、誠実、かつ勇敢な人物のまわりに国民自身が結集できる方途を考え出す必要があろう。

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