誰もが不運と隣り合わせ
たまたま運が悪かった人たちのこと。それはおそらく、ほとんどのみなさんにとって他人事(ひとごと)なのかもしれません。
でも本当にそうでしょうか。
高収入の共稼ぎカップルを考えてみてください。パートナーが心の病に倒れたとします。
彼/彼女が失業すれば、住宅ローンはどうなります? 子どもの教育費はどうなります?
親が要介護状態になり、介護のために仕事をやめる人がいます。どんなに苦労をしても親を最期まで大事にしたいというやさしさがそこにはあります。
ですが、親の病自体が運であり、親が何歳まで生きるのかによっても、肉体的、金銭的な負担、仕事に戻れるタイミングが大きく違ってきます。ここでも全てが運に支配されています。
この運次第でどちらに転ぶかわからない《将来不安》という名の恐怖は、貧しい人たちだけでなく、全ての人たちにひらかれているのではないでしょうか。
それだけじゃありません。悲しいことに、いずれの例でも、人間が生きのびることによって、まわりにいる家族が不幸になったり、負担を強いられたりする可能性があります。
これって当たり前なんでしょうか。
いま、大勢の大人たちが日々の暮らしに、老後の暮らしに、言い知れぬ不安を抱え、おびえています。
それなのに、私たちは、不安定な世の中に人生をかけろ、未来の幸せのためにいまをガマンしろ、と子どもたちに言わなければならないのです。
仮に正社員になれても、成長は行きづまり、奪い合いが待ち受けているとわかっているのに、貧しくなるよりましだからがんばれと背中を押さなければいけないのです。
運がよければそれでいいでしょう。幸せに生きていけます。でも、運が悪ければ、どんなにキャリアを積んでも、ちょっとしたきっかけで奈落の底に突き落とされます。
貧しい人に無関心で冷淡な社会は、いつ、自分や子どもたちに牙をむくかわからないのです。
今日よりもすばらしい明日を見通せない社会、生きづらい社会をこのまま残して死んでいいのでしょうか。
理不尽に怒りを!
僕はとても貧しい家庭で育ちました。母子家庭の生まれで、母のスナックのカウンターで毎日勉強して大きくなりました。
母、そして一生独身を貫いた叔母、二人が借金まみれになって僕を大学、大学院に行かせてくれて、今があります。
僕は大学の教員になれました。おかげで、この本を通じてみなさんと対話できる幸せ、何物にもかえられない喜びを感じることができています。
ですが、母子家庭や貧しい家庭に生まれた子どもたちは、その多くが勉強や進学の機会を与えられず、未来をあきらめねばなりませんでした。そんな子どもたちを僕はたくさん見てきました。
この途方もなく大きな差は、いったいだれの責任なのでしょう。この途方もなく大きな差を、学者である僕はいったいどうやって説明すればいいのでしょう。
ここに僕の怒りの根源があります。
子どもは親を選べません。なのに、貧しい家に生まれたというだけで大学や病院に行けない子どもがいます。そんな社会は「公正」な社会でしょうか?
生まれたときに障がいがある子がいます。それだけの理由で、不当な扱いを受け、色んなことをあきらめなければいけない社会が「公正」な社会でしょうか?
うちには3人の娘がいます。女の子として生まれたというだけで、性別や出産を理由に大好きな仕事をあきらめなければいけない社会は「公正」な社会でしょうか?
教えてください。自分が当事者だったら、子どもたちが不運な側に置かれたら、その理不尽な現実を「しかたない」の一言ですませられるのでしょうか?
「だってしょうがなくね?」でいいのか
日本は現役世代の暮らしを支える力が弱い国です。失業手当をもらえる人の割合は少なく、他の先進国では当たり前の住宅手当(家賃の補助)すら整っていません。
これに大学を中心とした教育、医療や介護の自費負担が加わります。いまの暮らしも、老後の暮らしも安心できないことにみんな気づいています。
生活が保障されない国である以上、子どもたちを受験戦争に巻きこみ、競争を強いるしかありません。
私たちはいつまでも子どもの面倒を見られません。自己責任で生きていける大人になってもらうしか、子どもたちが生きのびる道はないのです。
もちろん、競いあうことの大事さは僕だってわかっています。
でも、競争を強いる社会では、自己責任で生きていけない人たちを見下す空気が生まれます。競争の敗者は、努力の足りない人、情けない人とみなされます。
その冷たい空気は、自分や子どもたちにブーメランのようにはねかえり、私たちの身を切りつけることになるかもしれないのに、です。
いや、事態はもっと深刻でしょう。人間に競争を押しつける社会は、自由を否定する社会です。競争する/しないを選べる、つまり生きかたを選べることこそ、自由な社会の前提なのですから。
私たちは生きるうえでの選択肢をもっと増やさなくてはなりません。
競争するかしないかを選べる社会を作る、それは、競争しなくても安心して生きていける社会を作ることを意味しています。
社会主義とは違います。競争を否定するのではなく、競争とは違う生きかたも尊重する社会を創造するのです。
でも、僕の想いが期待どおりにみなさんの心に届くのか、どうしても自信が持てずにいます。
なぜなら、社会を変えよう、よりよい社会を作ろう、力めば力むほど、冷めた目で見られるに決まっている、そんな決めつけめいたものが僕のなかにあるからです。
だって、みなさんも聞いたことがあるでしょう。若者や大人だけでなく、子どもたちまでもが口にしはじめている、この悲しい言葉を。
「だってしょうがなくね?」
政治家のせいだ、はもう聞きあきた
それでも僕は自分をふるい立たせ、みなさんに語りかけていきます。絶望のなかに希望を見いだす力を持っているのが人間だと思うからです。
不安な未来に子どもを投げだすしかない、下手に生きのびれば家族に迷惑をかける、社会から公正さが消えようとしている……これらの理不尽を終わらせるためには、私たちは目の前の現実に怒り、政治を使いこなそうと意欲するしかありません。
政治の世界では、目をおおいたくなるような、くだらない事件が次々と起きています。だから私たちは、行動しない、世の中に異議申し立てをしない、そんな自分のことをたなにあげ、ついつい政治家をさげすみ、ののしることで満足してしまいがちです。
でも、ひとにぎりであれ、心ある政治家はいます。政治家や他人の悪口を言っているだけでは何も変わらないことに気づいている人たちだって大勢います。
今こそ大切な一票を
政治を使いこなそうと思えば、将来のビジョンを示す政党を見きわめ、大切な一票を投じていかねばなりません。
そのためには、さまざまな政策の束を読みとき、比べ、選びとる、私たちの眼力が問われます。そんな力を身につけないかぎり、政治家の悪口など何の役にもたたないことを私たちは知っています。
これはしんどいことです。めんどくさいことです。
でも、私たちが公正さについて考え、理不尽さに怒り、それを表現するようになったとき、そのときが本当のスタートではないでしょうか。
『ベーシックサービス: 「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』(小学館新書)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします政治を好き勝手にあやつり、世の中をわが物のように扱ってきた人たちは、私たちをおそれ、私たちの幸せを本気で考えなければならなくなるはずですから。
政治に失望し、だまりこむのではなく、信じ、怒り、発言する。そのためには知らなくてはなりません。私たち一人ひとりにとっての理想の未来を思い描かねばなりません。
自分たちの生きる社会の理不尽さに気づき、答えをさがそうとあれこれ考え、語りあう。
そんなささやかな努力の先に、未来の幸せだけでなく、いまの目の前の幸せも大事にできる、おだやかな世界が待っているのではないでしょうか。
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