原子力災害対応の課題について話す福島伸享衆院議員=国会内で(宮尾幹成撮影)

1999年に国内で初めて被ばく事故による犠牲者を出した核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO、茨城県東海村)の臨界事故発生から、9月30日で25年。住民への情報提供や避難要請などが後手に回った反省を踏まえ、原子力施設で事故が起きた際の国や地方自治体の役割を明文化した「原子力災害対策特別措置法(原災法)」が制定された。だが、その後も2011年3月の東京電力福島第1原発事故をはじめ、行政の初動対応が批判されたケースは繰り返されている。 25年前に若手官僚として法案の起草に当たった福島伸享(のぶゆき)衆院議員(54)=茨城1区、無所属=に、改善すべきポイントを聞いた。(宮尾幹成)

 原子力災害対策特別措置法 原子力災害の防止や発生時の緊急対応に関して、国や地方自治体、原子力事業者の責務を明確化した法律。JCO臨界事故をきっかけに制定され、1999年12月17日に施行された。法律に基づいて策定される原子力災害対策指針や原子力災害対策マニュアルによって、基準値を超える放射線量が計測される事態(10条事態)と、全電源喪失や冷却材喪失などで原子炉そのものが損傷するか損傷が予測される事態(15条事態)について、放射線防護や住民への情報提供などを国や自治体でどう役割分担するか、あらかじめ詳細に決めておく。2011年3月の東京電力福島第1原発事故を踏まえて大幅に見直された。
 15条事態の報告を受けた首相は直ちに「原子力緊急事態宣言」を出し、首相自身が原子力災害対策本部長として地方自治体や事業者に直接指示できるようになる。福島第1原発事故による緊急事態宣言は、現在も継続している。

―2024年の元日に発生した能登半島地震では、原子力規制庁(原子力規制委員会事務局)は北陸電力志賀原発(石川県志賀町)に異常はないと説明していたのに、変圧器の油漏れや電源喪失といった情報がどんどん出てきた。規制庁の対応をどう見るか。 「原災法ができる前は、(原子力施設の)現地に常駐する防災担当や規制担当の職員はいなかった。JCO事故を受けて、緊急時対応を担う防災専門官と規制担当の保安検査官をオフサイトセンター(現地対応拠点)に置くことにしたが、福島第1原発事故の時は役に立たなかったと批判された。今回は大みそかから宿直している規制庁の職員がいて、すぐに現地対策本部を立ち上げることができたのは評価できる」

報道陣に公開された志賀原発2号機の主変圧器=3月7日、石川県志賀町で(桜井泰撮影)

「問題は、(停電時に使える)非常用電源を持っている施設が近隣ではオフサイトセンターだけだったために、押し寄せた住民の対応で手一杯になってしまったこと。北陸電力からプラントの情報はいろいろ入っていたはずなのに、実際にプラントの中に行って確認するという動作ができなかった。電力会社が発表する情報だけでは国民に信頼してもらえないので、その情報を規制庁が客観的・科学的な見地から評価した上で発表する必要がある…というのが原災法の立法趣旨の一つだったが、それが全然できなかったのが課題だ」

◆石破茂氏は「防災省」の設置を主張するが…

―オフサイトセンターにいる規制庁職員には何が求められるか。 「原災法を作った時はまだIT社会ではなかった。今は簡単に動画も撮れる。現地の職員が、現場の動画を撮って公表するとか、新しい技術を使った広報も必要なのではないか。これは何もマニュアルを変えなくても、国民の気持ちが分かっていれば、現場の判断でできることだ。今回の志賀原発では(震度6弱以上の地震が発生した場合などが該当する)『警戒事態』となったが、それが解除されて以降は何もしないという状態になっていた。行政機関として不作為だったと言われても仕方ない」 ―職員の心構えの問題で、原災法自体を手直しする必要はないということか。 「法律というのは国民の権利・義務の制限や行政の役割分担を決めるもので、法律で何もかも規定することなんてできないし、するべきでもない。『応用問題』はマニュアルで定める。マニュアルを作るのは、いざという時に考えなければならない『余地』をできるだけ減らしておいて、いざという時には『余地』の部分を考えることに集中するためだ。マニュアル通りにやったから安心、ではなく、その時の状況に応じてマニュアルに書いていないことをいかにやるかが大事。なぜ、それができなかったのかは再検証しないといけない」

インタビューに応じる福島伸享衆院議員=国会内で(宮尾幹成撮影)

「もう一つ。原子力防災の所管大臣は防災担当相なのだが、プラントに関わる科学的な部分は原子力規制庁が見ることになっている。防災担当相は他にも多くの担当を兼務しており、普段は『原子力なんて、おれの所管じゃないよ』という意識になりがちで、今回も規制庁に丸投げしてしまっていたと思う」 「しかし、特に国民への広報に関することなどは、防災担当相に一元化して対応するべきだ。今も法律上はそうなっているのだから、この職に就く人に、事務方が『大臣、これはあなたの仕事ですよ』と徹底する必要がある。石破茂さん(10月1日に首相に就任予定)が自民党総裁選で『防災省』の設置を主張していたが、大事なのは法律上の意思決定の仕組みと役割分担であって、現行法でも既にそこは明確になっている。所管大臣の意識を変えなけば、たとえ防災省を作っても何も変わらないだろう」

◆梶山静六氏からの特命で法案起草チームに

―福島さんはJCO事故当時、通商産業省の職員だった。どういう経緯で原災法の制定に携わることになったのか。 「当時は資源エネルギー庁で原発立地自治体への交付金配分などを担当していた。JCO事故は、それまで原発立地を推進していた私にとって、地元茨城県のできごとでもあり、衝撃的だった。テレビのニュースを見ていたら、隣にいた上司から『君は茨城弁がしゃべれるんだから、行ってこい』と言われて、科学技術庁の原子力局に出向して事故処理に当たることに。間もなく、地元選出の梶山静六先生(元官房長官)から『臨時国会中に原子力災害のための法律を作れ』という特命が下りてきた」

ジェー・シー・オー(中央)の臨界事故発生を受け、茨城県東海村は半径350m以内の住民に独自判断で避難要請を出した=1999年9月30日、本社ヘリ「まなづる」から(佐藤春彦撮影)

「そうはいっても、臨時国会の会期は残り2ヵ月しかない。20~30人のチームで役所に泊まり込んで、ゼロからの条文づくりや各省との折衝、各党への説明や国会対応をやって、何とか成立させた。そのチームには、今は公明党の衆院議員になっている伊佐進一君もいた」 「梶山先生は亡くなられる1年前だったが、地元で起きた事故に激怒して、雑誌に『一番の原発推進派だった私でさえ、今回の事故の後ではニュートラルにならぎるを得ない』と、脱原発宣言と言ってもいいような論文を寄稿されていた。ご子息の梶山弘志さん(自民党衆院議員)のウェブサイトに全文掲載されているので、ぜひ読んでみてほしい」

 JCO臨界事故 核燃料サイクル開発機構(現・日本原子力研究開発機構)の高速増殖炉「常陽」で用いる核燃料の材料となる濃縮ウラン溶液を製造していた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で1999年9月30日、核分裂反応が連鎖する臨界が発生。作業員3人が大量被ばくし、うち2人が死亡した。原子力施設の事故による急性放射線障害で犠牲者が出たのは国内初。臨界は20時間持続し、救助に当たった消防隊員や周辺住民ら667人が被ばくした。刑事裁判では法人としてのJCOと、所長や現場責任者ら6人の有罪が2003年に確定。被害者に計約154億円の賠償金が支払われた。
 ウラン溶液を混ぜて品質を均一にする作業を効率的に行うため、臨界を起こしやすい太い形状の「沈殿槽」に制限量を大幅に超える量を投入したのが原因で、国の許可した手順を簡略化した違法な社内マニュアルにすら反するずさんな工程管理が問題視された。
 JCOは住友金属鉱山の100%子会社。核燃料事業の再開は断念し、現在は事故で発生した放射性廃棄物の管理などの業務を続けている。

―ゼロからの法案起草だったということだが、参照したものはあるか。 「当時、民主党に辻一彦先生という福井県選出の衆院議員がいて、政治生命を懸けて原子力災害対策の法律が必要だと言い続けていた。彼が作った法案の私案があったので読ませていただいた。いちばん参照したのは、南海トラフ地震に備えて1978年に制定された大規模地震特別措置法。災害対策基本法が定める災害対応は、原則として市町村、都道府県、国と下から積み上げる仕組みになっているが、地震の予知は国にしかできないということで、例外的にトップダウンにするという特別法だ。このやり方を参考にした」 ―原災法でいちばん魂を込めたのはどの部分か。 「何か起きたら有無を言わさずに、裁量の余地なく、緊急事態宣言が発令されるというところだ。裁量を与えると、いつまでも躊躇(ちゅうちょ)して発令できない。基準を明確に数値で決めて、それを超えたら自動的に緊急事態になり、首相の権限が強まるという仕組みを作ったのがいちばんの特徴だと思っている」

◆菅直人首相は「無手勝流で現場を混乱させた」

―福島第1原発事故の時、その強まった権限を行使して、事故現場や東京電力本店に自ら乗り込むなどした菅直人首相の評価は今も二分している。福島さんも与党民主党の一員だったが。 「行政機関はあらかじめ役割が与えられていて、指揮命令系統が狂うと動かなくなる。原災法でいくら権限が強まったといっても、基本的な方針を首相が決めたら、後はつかさつかさ(各省庁など)に分配される。首相が経済産業相や東京電力社長を飛び越えて、経産省職員や東電社員を指揮監督することはできない。菅首相が無手勝流で『おれが全部やるんだ』と動いてしまったことで、混乱が広がって収拾がつかなくなった部分がある」

東京電力本店に乗り込み、経営陣の前で演説する菅直人首相(当時)=2011年3月15日(東電が公開したテレビ会議の映像から)

―菅氏の側は、東京電力が全く機能しなかったからやむを得なかったと説明しており、それを擁護する論調も根強い。 「果たしてそこまで機能していなかったかというと、東電の現場や本店に、この期に及んで情報を隠そうなんていうことはなかったし、何とかしてあの場を収めようとしていた。もっと現場を信頼するべきだった。一部では『菅さんがいたから日本が救われた』と脚色されているが、現場の人たちに失礼だと思う」

 福島伸享(ふくしま・のぶゆき) 1970年、茨城県日立市生まれ。東京大農学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)に入り、資源エネルギー庁で電力・ガスの自由化や原子力立地などを担当。1999年に科学技術庁(現文部科学省)に出向し、原子力災害対策特別措置法の立案に携わった。2003年、2005年の衆院選で民主党から茨城1区に立候補したが落選し、2009年に初当選。2014年に再選。森友学園問題を巡る国会質疑で、安倍晋三首相(当時)から「私や妻が関わっていたのであれば総理大臣をやめる」との発言を引き出して注目された。「希望の党」騒動を経て2021年に無所属で3選。衆院会派「有志の会」に所属する。



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