先般の衆議院議員選挙については、野党の躍進、自民・公明連立政権への厳しい審判という総括を行った論評が目立った。いわゆる政治資金問題、それに象徴される政治不信に選挙民が厳しい意見を突き付けたことは事実である。

けれども、選挙結果を見ると、国民自身のありようが厳しく問われなければならないのではないか。

第1に、投票率が極めて低く、50%そこそこにとどまったことだ。言ってみれば、国民の政治不信の流れは反自民党の方向に行ったという側面もあるが、政治への不参加という形でも現れている。内外情勢が厳しく、明日の日本のあり方を真剣に見定めなければならない時に、いわゆる裏金問題が選挙戦における国民の最大の関心事であったことは、一見無理からぬことに見えるが、実は深刻な問題である。

そもそも、いわゆる政治とカネの問題については、そうした金権体質を生んだ政治家や政党の姿勢が問われるのは当然だが、その背後には、国民自身がおカネによって動く体質になっているという問題が横たわっているようにも思える。

選挙におカネが要るというのは、結局のところ、選挙民を動かすものがおカネであることを暗示している。政治家の倫理を問うことと平行して、選挙民自身の素質と態度が問われなければなるまい。

第2に、新興の政党が票を伸ばした裏には、既存政党への不信も働いていようが、とかく、新しいものには何となく引かれるという大衆のミーハー的傾向が作用しているように思われる。特定の政策や思想よりも、ある種のムードに一部の国民は引きずられすぎていないか。

そして第3に、政治家が国民の審判だと強調するのを、国民が受け入れているように見えるのはいささか心もとない。国民の審判だの、国民の付託だのと政治家が強調する時こそ、国民は政治の偽善に気を付けねばならぬ──そういった趣旨のせりふが、トルストイの名著「アンナ・カレーニナ」に記されているという。そして、大衆は、小さなウソにはだまされないが、とかく、大きなウソには引っ掛かると言った人がいたことを思い出すべきだろう。

大風呂敷を広げて、あれをやる、これもやると叫ぶ選挙公約に惑わされてはならず、また、主として敵失で得点を稼いだように見える政党に対しては、その真の心底を見定めねばなるまい。

毛沢東は、世の歴史を作る力は人民であり、人民のみだと言ったとされるが、本来この言葉は、政治家ではなく、人民自らによって強調されるべきものであろう。

選挙結果を厳しく見つめて未来を真剣に考える覚悟を持つべきは、実は、国民自らではあるまいか。

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