決選投票の仕組みは?
過去の決選投票は?
選挙後の各党の動きは
終戦後の1948年に行われた総理大臣指名選挙。吉田茂氏と片山哲氏による争いは決選投票にもつれこみました。その結果、吉田茂氏が総理大臣に指名されました。
その5年後、1953年にも。再び吉田氏が決選投票に臨み、重光葵氏との争いを制し、総理大臣に選出されました。
1979年には大平正芳氏と福田赳夫氏による決選投票に。自民党どうしの争いでした。当時、自民党では衆議院選挙での敗北を受けて派閥が激しく対立する「40日抗争」が起きていました。
(浜田幸一氏)「いいか、断わっとくけどな、かわいい子どもたちの時代のために自民党があるということを忘れるな。お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ」自民党から2人が総理大臣候補となる異例の事態。制したのは大平氏でした。
そして、直近では1994年。村山富市氏と海部俊樹氏の争いです。政権復帰をねらう自民党が社会党とさきがけと組んで推した村山氏と、新生党や公明党などが推した海部氏。決選投票の結果、村山氏が総理大臣に選出され、自民・社会・さきがけの3党連立政権が誕生しました。
衆議院選挙で自民・公明両党が過半数割れとなる中、総理大臣指名選挙に向けて与野党はどう動いたのでしょうか。今回の衆議院選挙で、自民・公明両党は合わせて215議席と、目標としていた過半数の233議席を下回りました。こうした中、石破総理大臣はみずからが続投し、連立政権を維持していく考えを示しました。(石破首相 10月28日)「現下の厳しい課題に取り組み、国民生活を守る、日本国を守るということで職責を果たしてまいりたい」自民党は、野党と政策ごとに一致できる点を探りながらの政権運営を目指し、総理大臣指名選挙で石破氏が指名されるよう野党側と調整を始めます。一方、選挙前の98議席から大幅に増やし、148議席となった立憲民主党。指名選挙に向けて、ほかの野党との連携を模索します。(立民 野田代表 10月28日)「自分がまず手を挙げて、ご協力をお願いをするというのが基本だろう。誠意ある対話をあしたからでも始められればなと」野田代表は、日本維新の会や共産党と党首会談を行い、決選投票になった場合は、自身に投票するよう呼びかけました。(野田代表 10月30日)「政権を変えていく大きなチャンスでもあるので、首班指名選挙では私“野田”と、ぜひお願いをしますと」(共産 田村委員長 10月30日)「企業・団体献金の全面禁止。このことが確認をできれば、対応については前向きに検討をしたい」一方、維新は。(維新 馬場代表 10月30日)「国民の皆さんがなるほどと思っていただけるような、やはり大きな大義、そういうものがなければわれわれはくみすることはないと」こうした中、注目されたのが、選挙前の7議席から4倍の28議席に増やした、国民民主党の動向です。(国民 玉木代表 10月29日)「私たちがほしいのはポストではなくて、選挙で約束した手取りを増やす、国民の懐を潤す、経済政策の実現がほしいんです」玉木代表は、自民・公明両党の連立政権に加わらず、党が掲げた政策の実現に向けて政策ごとに協力できるか判断したいという考えを示しました。その後、国民民主党は、自民党と幹事長会談を行い、新たな経済対策の内容を含め、政策ごとに協議を進めていくことで一致。公明党とは、いわゆる「年収の壁」をめぐって国民民主党が主張している「103万円の壁」の見直しなどについて、協議を進めていくことで一致しました。一方、玉木代表は、立憲民主党の野田代表と会談。政治改革を急ぐため、年内の政治資金規正法の再改正を目指すことで一致し、野田代表は「103万円の壁」の見直しに協力する考えを伝えました。ただ、国民民主党は、総理大臣指名選挙では決選投票になった場合も含め、玉木代表に投票する方針です。(国民 玉木代表 10月30日)「1回目・2回目も玉木雄一郎と書くのがいちばん我々に票を投じてくれた皆さんに、その思いにですね、最も寄り添うものだと」
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