年金制度が産声をあげた頃、年金官僚が輝いていた時代は、確かに存在した(写真:soraneko/PIXTA)この記事の画像を見る(7枚)いまから20年前、「100年安心」というキャッチーな言葉が2004年の年金改革を象徴するものとなり、いまに至る年金制度に息づいている。それは、年金官僚が政治の前に無力だった屈辱の1ページである。しかし、年金制度が産声をあげた頃、年金官僚が輝いていた時代は、確かに存在した。ここでは、『週刊文春』の記者として年金問題を追い続けてきた和田泰明氏の著書『ルポ年金官僚』から一部を抜粋。厚生事務次官、さらに霞が関官僚機構の頂点である内閣官房副長官(事務)を5代の内閣、8年7カ月にわたって務めた古川貞二郎が入省した当時の厚労省年金局の攻防を紹介する。(全3回の1回目)

元首相の不在

2022年9月17日午後。空はどんよりと曇っているが、夏はまだ残っていて、黒ずくめのスーツでは汗ばむほどだ。港区芝公園の増上寺光摂殿に、750人もの喪服を着た人々が集まった。営まれたのは、9月5日に87歳で死去した古川貞二郎の「お別れの会」である。

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整然と並ぶスタッキングチェアの最前列に、マスクをした老人が、杖を手にどっかりと座っている。森喜朗である。その後ろの席は、マスクをつけていない小泉純一郎と福田康夫がいた。しかしこの「元首相」たちの中に、本来いるべき人の姿はなかった。

2カ月前、銃弾に倒れた安倍晋三である。

古川は、厚生事務次官、さらに霞が関官僚機構の頂点である内閣官房副長官(事務)を5代の内閣、8年7カ月にわたって務めた。20歳年下の安倍とは、森、小泉政権にかけ、福田官房長官の下、ともに官房副長官だった間柄だ。2003年9月、古川が勇退する時、安倍も官邸を去った。現行の年金制度に連なる「100年安心年金」の法案成立に向け、空前の「年金ブーム」が巻き起こっていた頃だ。

年金は、二人に深く関係している。

古川は、国民年金法が成立した翌年の1960年に厚生省に入省。発足したばかりの年金局で駆け出しの5年間を過ごし、国民皆年金制度スタートを間近で見てきた。

安倍は2000年に成立した「ミレニアム改正」に自民党社会部会長として携わった。「年金ブーム」の2004年改正では、官房副長官、党幹事長として保険料率などの調整役を担った。総理に就くと、社会保険庁の後継組織「日本年金機構」の名づけ親となった一方、「消えた年金記録問題」に足をすくわれ、辞任に追い込まれた。2012年にカムバックを果たし、巨額の年金積立金を扱うGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)改革にメスを入れた。

この歳の離れた二人がほぼ同時期に亡くなり、同じ増上寺で弔われたのも、年金の一つの時代の終焉を暗示しているかのようだった。

これが「本省」なのか

1960年1月6日水曜日朝、東京・霞が関の空は澄み渡り、身が引き締まる寒さである。古川貞二郎が、憧れの厚生省に初登庁するのにふさわしい天候であった。

上京したのは2日前。1月3日に佐賀を発ち、寝台急行「雲仙」で翌4日、国鉄品川駅に着いた。入省が急遽決まったため、住まいはまだ決めておらず、当面は北品川の長崎県寮に身を寄せることにしていた。

この日、古川はブロー型眼鏡をかけ、髪を七三にきっちり分け、長崎市浜町の古着屋で買ったオーバーコートでめかし込んでいた。都電品川駅から路面電車に揺られて日比谷駅で下車し、厚生省に向かう。

だが目の前に現れた建物を見て、古川は茫然とした。

これが「本省」なのか──。

国家を動かしているにしては、何とも頼りない外観であった。

現在、厚生労働省と環境省が入る中央合同庁舎5号館付近は、戦前、海軍省の敷地だった。海軍省本館は霞が関三大美建築と称えられたが、1945年5月の東京大空襲により、新館、海軍大臣官邸とともに焼失してしまう。ただし日比谷公園に面した煉瓦造りの重厚な建物は残った。終戦後、廃止された海軍省に代わって入居したのが厚生省である。

そこが手狭になり、中庭に、資料などを保管するための木造3階の建物が造られた。やがて1階に薬務局、2階に年金局が入って「仮庁舎」に。2階の床で水を撒いて掃除をしていると、1階の天井から水が滴り落ち、1階の職員が怒鳴りこんでくる……、そんなエピソードのある、当時としても安普請な建物だった。

仮庁舎2階にある年金局国民年金課が、古川の配属先であった。

階段を上がるたびにギシギシ鳴り、それが緊張を一層高めた。だから古川は、この時に若い女性とすれ違ったことを覚えていない。女性は、高校を出たての厚生省福祉年金課の臨時職員。二人が結婚するのは、その4年後のことである。

あきらめの悪い男

古川は25歳。新人にしては、回り道をしている。

佐賀県佐賀郡春日村の農家の長男として生まれた古川は、九州大学を志望。不合格となり佐賀大学文理学部に入学を果たすが、あきらめきれず、籍を置いたまま九州大学法学部を受験し、合格する。

就職は「両親のように一生懸命働いた人たちの老後は幸せであるべきだ」と厚生省を志望した。国家公務員上級職を受験するも失敗。まずは長崎県庁に入庁した。同時期、自治省採用で赴任してきたのが片山虎之助(後に総務大臣、日本維新の会共同代表)である。

古川はあきらめが悪かった。県庁から帰宅後に試験勉強を続け、翌年も国家公務員試験を受けるのだ。

今度は行政職10位の成績でパスした。だが面接試験のため佐賀から東京へ向かう時、不運に見舞われる。1959年9月26日、死者・行方不明者5000人を超えた伊勢湾台風が東海地方を直撃したのだ。

交通網は壊滅的となり、東京に辿り着くのに36時間かかった。食事も睡眠もろくにとっていない状態で、身体検査では身長172.5センチで体重はわずか49.5キロ。検査を担当した係官に驚かれたほどだ。

それも原因だったのだろう、面接が行われた日の夕方、厚生省内で不合格を告げられる。

だが、やはりあきらめが悪い。宿にしていた品川の長崎県寮に戻ったが、どうにも納得がいかない。そこで翌朝一番、古川は厚生省人事課長・尾崎重毅のもとを訪ねるのである。

古川は厚生行政に対する熱い想いをぶつけた。尾崎は心を動かされたのか、「君のような熱意のある人材がわが省に必要だ。上と相談するから、いったん長崎に帰っといてくれ」と答えた。だが、古川はテコでも動かない。長崎に帰れば、「精一杯やったがダメだった。来年がんばってくれ」と言ってくるのがオチと思ったのだ。

人事課長と言えども、独断で決められる話ではない。

「君の期待に必ずしも沿えないかもしれない。その時は変な事になるまいな」

尾崎は、古川が自殺でもするのではと案じたのだ。

「その心配は全くいりません。私は来年、また厚生省を受けに来ますが、国家試験に受かるかどうかわかりませんので、今年ぜひ採用してください」

古川はそう言い残し、厚生省を後にした。

やれるだけのことをやった、と古川は夕方、東京観光でもしようと考えた。東京駅から「はとバス」に乗ろうとする時、友人が走り寄ってきた。携帯電話のない時代、東京在住のその友人宅を古川は連絡先にしていた。

「厚生省から内定の連絡があったぞ」

古川は「逃げない、あきらめない、道は開ける」との信念を得たと、私の取材に振り返ったが、いまなら到底ありえない。「戦後」が色濃く残る混乱期で、霞が関も「何でもあり」の懐の深い時代だったということだろう。

岸信介と国民年金

不採用を一転させたのは誰か、当の古川もわからずじまいだ。ただ後に聞いたところでは、目をつけたのは年金局長・小山進次郎のようだった。小山の前職は国民年金準備委員会事務局長で、尾崎はその事務局次長を務めている。尾崎が、あまりに熱い想いを持った新人の存在を小山に伝え、小山の判断で預かろうと考えたのかもしれない。

入省は通常なら1960年4月1日付だ。「入省が急遽決まった」と書いたのは、小山の指示で、同期で一人だけ1月1日付に前倒しされ、年金局に配属されたからである。

年金局が、新人の手も借りたかったのは、前年1959年4月に国民年金法案が成立し、1961年4月、国民皆年金制度が本格的に実施されるためだ。

日本の公的年金制度は1941年、一般労働者向けに広げた労働者年金保険法をもって始まりとされる。対象は男性だけだったが、1944年に女性も加入できるよう法改正された。同時に「労働者」という表現が社会主義思想を連想させるとして「厚生年金保険法」に名称変更され、いまに至っている。

1954年、55歳だった男性の支給開始年齢を20年かけて段階的に60歳に引き上げるといった、厚生年金保険法の大改正が行われた。この時点で、年金加入者は全就業者の4分の1にとどまっていた。零細企業の社員や、農民、自営業者は厚生年金に加入できないのだ。当然、「4分の3」の老後保障を求める声が上がってきた。

政治は反応せざるをえない。1955年2月の衆議院選挙で各政党は、農漁民ら自営業者も加入できる年金制度の創設を掲げた。同年10月、左右に分裂していた社会党が統一して日本社会党が、11月には民主党と自由党が合流して自由民主党が誕生した。自民党が与党、社会党が野党であり続ける「55年体制」である。

「国民皆年金制度」が既定路線となる中、1957年2月、総理の座についたのが、岸信介――安倍晋三の祖父であった。

病を抱えた秀才官僚

1958年4月1日、厚生省に「国民年金準備委員会事務局」が設置された。厚相・堀木鎌三が、病に臥せりながらも、省内各局から優秀な人物を集めよとしつこく指示を出したためだ。そこで事務局トップに抜擢されたのが、42歳の保険局次長・小山進次郎であった。

小山は東京帝国大学法学部を1938年に卒業後、設置されたばかりの厚生省に入省。翌年、山口県庁に出向し、県庁そばの書店で最も本を買う客だったという逸話が残る。1942年には、猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』で題材にされた若手エリート集団「総力戦研究所」の研究生となった。終戦後、引揚援護院援護局業務課長、社会局保護課長といった弱者救済に携わり、1951年に省中枢の大臣官房総務課長に。1956年、保険局次長となった。

眼鏡をかけた痩身の神経質そうな外見である。実は、30代で心臓病を発症し、聖路加国際病院の日野原重明(後に名誉院長)を主治医として病と闘っていた。小山が急に姿を消せば、トイレで薬を飲んでいると、後輩たちは理解した。

大臣肝いりの組織とあって、各局は有望株を速やかに推薦してきた。

事務局は正式なポストでなく、小山は、医療機関の診療報酬が全国一律となったことによる処理で、保健局次長を兼務した。当面は、尾崎重毅事務局次長(厚生年金保険課長兼務)が舵取りを担った。尾崎は後に人事課長となり、古川貞二郎の直談判を受ける。

事務局は部屋や備品の手配から始めなければならなかった。

こうして入居したのが、あのオンボロ庁舎2階だった。

(第2回につづく)

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