昭和後期から半世紀にわたって俳句界を牽引(けんいん)した代表的俳人で、俳人協会名誉会長の鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう、本名高橋行雄〈たかはし・ゆきお〉)さんが5月27日、老衰のため死去した。93歳だった。10日、俳人協会が発表した。葬儀は親族で営んだ。
山形県新庄市生まれ。父の転勤に伴い小学校は6回変わった。俳人としての始まりは1946年。広島・尾道商高の校内俳句誌に投稿した「稲刈りの進めば進む蝗かな」が入選したことだった。
師は山口誓子と秋元不死男。俳号の「鷹羽狩行」は本名の読み「たかはし・ゆきお」をもじって誓子が59年に命名した。
65年、第1句集「誕生」で俳人協会賞。77年、サラリーマンを辞めて「専業俳人」に。78年、昭和の俳句を先導することになる俳句誌「狩」を創刊し、主宰になった。
2002年、俳人協会の会長に就任。08年、15番目の句集「十五峯」で蛇笏(だこつ)賞と詩歌文学館賞をダブル受賞した。15年には「闊達さの際だつ句風を確立し、後進の指導にも尽力」として芸術院会員に任じられた。17年に俳人協会会長を退いて名誉会長に。18年には「狩」を終刊し、19年に弟子の片山由美子さんが主宰する「香雨」の名誉主宰に就任した。19年、宮中歌会始の召人になった。
代表句の一つ「摩天楼より新緑がパセリほど」は69年作で、海外詠の先駆として知られる。「紅梅や枝枝は空奪いあひ」「人の世に花を絶やさず返り花」「秋天の一滴となり鷺下りる」など数多くの秀句を生み出した。
鷹羽俳句は「スマートで巧みな言葉の技があり、くっきりとした句姿で味わいがある」と評される。自身は「俳句には一瞬を永遠にする働きがある」「名句の条件とは、美しい日本語で、一読して意味が分かり、読むほどに味わい深くなるもの」と語っていた。
新聞、雑誌、ラジオなどの選者を務めていた2000年ごろの毎月の選句数は約3万句にも及んだ。
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