先日、55年出演し続けた演芸番組【笑点】を勇退した落語家の林家木久扇さん。
番組は卒業しましたが、86歳となった今でも寄席に出演し、お馴染みのおバカキャラで会場を虜にしています。そんな木久扇さんの落語に対する思いを自宅にお邪魔して聞いてみました。
●落語家前に漫画家をやっていた?
私、漫画の仕事の方が古いんですよ。こっちの仕事も結構あるんですよ。似顔絵もよく頼まれます。ちゃんと原画料も頂いております。
清水崑さんという(漫画家の)先生がいまして、その先生の弟子なんです。黄桜のCMをやった方なんです。私、連載も結構持っているんです。
タウン誌の「日本橋」は2年間描いていましたし、NHKの東京落語会というのがあるんですけれども、それはもう30数年描いていまして、僕、漫画家になりたかったんですよ。
●落語家になるきっかけは?
僕は漫画を書きながらモノマネをやるんですよ。清水先生が「変わったやつだな」ってね。(清水先生が)「漫画は面白いものじゃなくちゃいけないんだけど、自分まで面白くなっちゃうやつはいないだろう。ちょっと芸人をやってみるか? 落語家っていうのは、1人でいろんな役をやるから結構参考になるぞ」って言うんで、僕も違う世界を覗いてみたかったから、「面白いんじゃないかな」と思ってね。それで、「いいですね」って言って先生に、昭和35年の8月15日です。終戦記念。桂三木助という師匠のところに入門しました。
●漫画家の道をやめた?
前座になると師匠の身の回りとか、絵なんか描く時間なんかないですからね。だから2~3年は絵を描く仕事はやってなかったんですけど、また、だんだん自分の修行に余裕ができてきて、「この時間はちょっと絵描けるな」っていうと、前の編集者を知っていますから、「ちょっと月5万円ぐらいいるんだけど、絵描かせてくれないかな」って言って稼いでいました。
●長年続けた演芸番組【笑点】を卒業した理由は?
卒業する原因の1つは、いつの間にか居なくなると、別れがないんですよね。大きい病になったり、それからいろんな事情でお辞めになったり、ハツラツとした時に辞めた方がいない。僕は、江戸っ子でカッコつけだから、元気なうちね。「もうちょっとやれば」って言われるうちに辞めちゃおうと思って、55年ってすごい歳月ですからね。良いんじゃないかなと思って、まだ元気だから、カッコつけですね。
●【笑点】卒業を意識したきっかけは?
卒業する時も、妻がよく感想を言ってくれるんですよね。番組の出来上がりをね。「お父さんもう(辞めて)いいんじゃないの」って、そういう風に見えるのかなと思って、「そうだね」って言って、辞めるきっかけになったんです。
●そんな木久扇さん、他にも、妻からの何気ない一言に「救われた」といいます。
(2014年に)病気になった時も「(妻が)お父さんちょっと変よ。大学病院ちょっと行ってみたら」(と言って)、そしたら風邪じゃなくて喉頭がんだったんですよね。それから、(2000年に)お腹切った時も「(妻が)食べる量が少ないし、なんだか、だるそうに動いてるけど変よ」って言って、それで胃がんだったんですよ。
●2000年に見つかった胃がんについて…
原因は胃がんの方はお酒の飲み過ぎで、僕は夕方飲み始めるとは朝の4時頃まで飲んじゃうんですよ。それはダメですよね。あの内臓がまいっちゃうからね。でもステージ2とか本当に手前で発見されているんです。うちの妻が「ちょっと変じゃないの」っていう言葉で、喉頭がんの時も放射線で治したんです。僕、「ああ、そんなものすごい機械でやったら、1回の照射が5・6万円取られるんじゃないかなぁかな」と思って、金掛かるななぁと思ったら保険がきいたんですよ。本当助かりましたよ。
●胃がんで手術をした時、仕事は?
胃がんの時は笑点も休んでないですよ。看護師さんと一緒に行きまして、舞台の下で看護師さんが待っていて、点滴の針抜いて喋って、(終わったら)また刺して、病院に戻ってってやっていたんです。だから笑点は休んでないんです。それでウケたしね。「僕は今、病院から来てるんです」なんて言うと、お客が「またぁ」なんて言ってウケましたね。
●2014年・喉頭がんでの入院時を振り返って…
喉のがんの時はやっぱり無理ですからね。喉頭がんになった時、がんを𠮟りつけてましたね。毛布はねのけて起きて、「おい!がんよ。お前はなぁ、前は腹の中入ってきて俺はえらい目にあった。今度は口の中かよ。商売できねえじゃないかよ。俺はね、17人養っているんだよ。俺が働かなかったらみんな食えなくなっちゃう。出てけ!」って、かすれた声で言ってたんです。それで、大学病院の教授に話したら、「そういう前向きの人はね、病が治るんです」って、人が聞くとバカみたいですけど、本当に毎朝、小言を言っていました。がん細胞も生き物だから聞いているんじゃないですかね。
●木久扇さんのおバカキャラは、いつ生まれたのか?
きっかけは、昭和53年にアメリカロケがあったんです。なんかジャズで問題に対して回答してやろうと思って、セントルイス・ブルースとかアームストロングとか若い頃から好きだったんですよ。セントルイス・ブルースっていう曲は2小節使うと替え歌にしやすいんですね。それをなんか面白い答えにしようと思って、「バカ~そこはお耳なの~ そこは口なの~」って替え歌にしてアメリカでやったんです。すごくウケまして、そこでおバカキャラっていうのが出来たんです。おバカキャラ、儲かるなって、おバカキャラやっていると、ずいぶん仕事が来るんです。
●新しい本のタイトルにも「バカ」をつけた理由は?
「バカの遺言」って本を書きました。これ書いたんですけどね。黄色い本でね、とても本屋さんで平積みになっていると目立つんですけど、バカっていうので印刷されるのは嫌だったんですよ。でもこの方が売れるんですよね。「木久ちゃんが書いた、どんなことを言ってんだろう」って、そしたら中は、いろんな人のスケッチとか、それから成功した芸人。それから、僕の失敗談とかそれを全部書いた。
●これからの人生でやってみたいことは?
絵が描けますから、アニメを作って「落語スター・ウォーズ」っていうのを作って、落語の世界に恩返しというか。落語のいろんな登場人物、それが全部宇宙に飛んでいって、ラーメン店を開いたり、異星人といろんな面白いことを。ダース・ベイダーなんていうのもいますから、それはちょっと使えないんで、アッカン・ベイダーっていうのが出てくる、宇宙の悪者でね。それを僕が黄色い騎士になって叩き潰す。ハリセンでね。ハリセン・フォードなんつってね。そんなこともやってみようと思ってね。
●落語は何歳ぐらいまでやる?
それは声が出る限りやるし「もう私は落語をやりません」っていう、そういうことはしない。区切りはつけないように、どこまで声が出て笑わせられるかって、それをやりたいですね。興味があります。生きるってことはね。自分で区切りつけるものじゃないんですよ。“終活”、あんなことはするもんじゃないんです。その“終活”に使うエネルギーがあったら、それだけ生きた方がいいんですよ。散らばったまんま、あとは遺族、家族もやってくれるだろうし、そんなね、きちんと死のうなんてのはね、作りごとでおかしいですよ。“終活”っていうのは僕はしません。このままです。じゃもう喋れるまでずっと、(しゃべれるうちは)稼ぐ!チャリンチャリン。私はモットーが入金なんです。
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