『メイ・ディセンバー』でグレイシー(右)になり切ろうとするエリザベス役のポートマン(左) ©2023. MAY DECEMBER 2022 INVESTORS LLC, ALL RIGHTS RESERVED.

<「演じること」に向き合う役どころは『ブラック・スワン』以来。空虚なテレビ女優を映画『メイ・ディセンバー』で見事に演じる──(レビュー)>

すごい演技を見せられると、鏡に吸い込まれたような気分になる。自分の似姿が見えるわけではないが、そのキャラクターの心が読めた気がする。

だが、ナタリー・ポートマンの場合は違う。吸い込まれるどころか、固い鏡に鼻をぶつけてしまう。早くから才能を絶賛され、アカデミー賞も受賞したが、彼女は常に冷めた演技で観客を突き放す。


演じる役になり切る役者もいるが、ポートマンはいつも役の外側にいて、臨床医のような目で自分の役を観察している。楽譜には忠実だが心は空っぽの氷のような歌い手。そんな感じだ。

そんな彼女が最も素敵に見えるのは、自分と同じような状況に置かれ、与えられた役を演じようと努力はするが、「なり切る」には程遠い人物を演じるときだ。つまり、下手な女優を演じさせたら彼女の右に出る者はいない。

自分とは違う誰かを演じようとして必死に生きる人。そういう役をポートマンは一貫して演じてきた。

いい例が2016年の『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(主演)であり、04年の『クローサー』(助演、ストリッパー役)だ。

しかし最新作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』(トッド・ヘインズ監督)のように演技という行為の本質に向き合う役柄となると、10年の『ブラック・スワン』以来だ。

本作でポートマンの演じるエリザベス・ベリーはテレビ女優。中学1年生の男子とセックスしたことで刑務所送りになった元ペットショップ従業員グレイシー(ジュリアン・ムーア)の半生を描く映画の主役に抜擢され、これを機に本格的な演技派に転身しようと意気込んでいる。

事件から24年、グレイシーは当時の男子生徒ジョー(チャールズ・メルトン)と結婚し、幸せに暮らしているように見える。2人の間に生まれた3人の子(最初の子は獄中で生まれた)の下の双子も、もうすぐ大学に入る。

これからは子供という緩衝材なしに2人きりで向き合う日々だ。そこへエリザベスが現れて、役作りのためと称して昔の話をあれこれ聞き出そうとする。触れたくなかった疑問が蒸し返される。あのとき13歳だったジョーとの性行為は本当に同意の上だったのか?

エリザベスは2人の揺れる心に付け込み、あらゆる機会を利用してグレイシーの装う歓迎の仮面に隠れた素顔をのぞき見ようとする。

エリザベスはグレイシーが刑務所で出産したときのニュースを報じる昔のタブロイド紙に目を通しながら、メモを読み上げる。「目は丸く......鋭く......開いているのに閉じていて......機械的、それとも何も感じてない?」

『ブラック・スワン』で黒鳥に扮したポートマン EVERETT COLLECTION/AFLO

個性がないという個性

何も隠すことのない、ありのままの人物を演じるときのポートマンは、簡単な質問にすらすら答えながらも、心ここにあらずといった風情の優等生を思わせる。もっと難しい問題を投げてやらないと、彼女は本気を出さない。

だが、本気を出しても彼女の素顔は見えない。どんなに彼女の出演作を見ても、本当のポートマンは見えない。たいていの映画スターには核となる個性があって、その周りに役が付いてくる。


トム・クルーズなら自信過剰な挑戦者、マーゴット・ロビーなら愛すべき反抗者といった具合だ。しかし、役者としてのポートマンにはそんな核がない。あっても私たちには見せない。

映画デビュー作『レオン』で中年の殺し屋に弟子入りした12歳の少女を演じた頃から、ポートマンは変わっていないのかもしれない。いつも完璧なテクニックを見せつけるけれど、それ以上に自分を見せようとはしない。

天才バレリーナのニナを演じた『ブラック・スワン』でもそうだった。ニナは『白鳥の湖』の主役に起用されるが、振付師は無垢な白鳥の役と、俗にまみれた黒鳥の役をどうしても同じ人物にやらせたい。

ところがニナは、白鳥役には最適だが毒がない。だからあえて、黒鳥の役を新人のリリーと競わせた。テクニックこそ劣るが、リリーには個性があった。ニナは「完璧」だが、リリーが踊る黒鳥は「本物」だ。振付師はそう言った。

物事の表面しか見えない

『メイ・ディセンバー』の話に戻ろう。ポートマン演ずるエリザベスに女優としての才能が欠けているのは明らかだ。

彼女は本気だし、ジョーとグレイシーの関係について「なんらかの真実」を描き出したい一心で取材していると言うのだが、グレイシーにはエリザベスの本心が透けて見える。グレイシーの人生もまた演技の連続だったからだ。

エリザベスはグレイシーの癖をまねし、化粧の仕方も同じにする。見た目を同じにすれば相手の心の裏も読めると信じたのかもしれないが、あいにく彼女には物事の表面しか見えない。そもそも自分自身に裏がないからだ。

自分は13歳のジョーに誘惑されたのだと、グレイシーはずっと自分に言い聞かせ、そうすることで罪悪感を押し殺してきたが、どこかに自責の念が残っている気配は感じられる。しかしエリザベスには、まず気配というものがない。

この映画で最も印象に残るのはエリザベスとグレイシーが並んで鏡の前に立つ場面だ。ただし鏡に映った姿は見えない。見えるのは洗面所のシンクの前に立つカメラ目線の2人の姿のみ。

この場面だけで2人の勝ち負けが分かる。いくら化粧をまねてもエリザベスはグレイシーに似ていない。ずっと「不当な罪を着せられた女」を演じて生きてきたグレイシーのほうが役者が上だ。

エリザベスは空っぽだ。ポートマンは完璧な演技で、それを一目で分からせる。おかげで私たちは自分を見つめ直せるし、他人の心の内側に入り込むことの難しさに気付かされる。


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MAY DECEMBER
メイ・ディセンバー ゆれる真実
監督/トッド・ヘインズ
出演/ナタリー・ポートマン、ジュリアン・ムーア
日本公開は7月12日

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