虹二の愛機、ライカ製カメラを手にする新井英範さん(右)と、展示される肖像写真を持つ唐﨑瑞穂さん=熊谷市内で2024年9月25日午前11時56分、隈元浩彦撮影
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 埼玉県熊谷市出身の写真家、佐藤虹二(こうじ)をご存じだろうか。熊谷空襲直後の焼け野原になった市街地を撮影したことでかすかに名をとどめる。存命中は、絵画のように作り込まれた作品で知られ「作画の名手」とたたえられた写真家だった。肖像写真も得意とし、印象的な作品を残している。そんな業績を知ってもらおうと、モデルとなったゆかりの人を探そうという、ユニークな写真展が6日まで市内で開かれている。【隈元浩彦】

 佐藤虹二は1911年、熊谷市石原で自転車卸業の家に生まれた。少年時代から写真を始め、家業の傍ら写真誌のコンテストで入賞を重ねた。同世代で、のちにフランスの芸術文化勲章を受章するなどした写真家の植田正治氏(1913~2000年)は「良きライバルでした」という称賛の言葉を贈るほど、才能を発揮していた。

 虹二の名が写真界で知られるようになったきっかけは、36年発表の「黒マントの男」。人物の表情を通して当時の時代の気分のようなものまで表現している。巧みな構図が持ち味で、風景も幾何学的なモダニズムの味わいが漂う。また敗戦前夜の熊谷空襲では、がれきと化した街中を撮影、空襲から最も直近の写真とされる。50年には市文化功労者に。55年に44歳で病没した。

佐藤虹二自画像=1938年ごろの写真、新井英範さん提供
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 今回の写真展では、昭和20年代に撮影された18点の肖像写真が展示されている。いずれも虹二自身が印画紙に焼き付けた六つ切りサイズ(203×254ミリ)のオリジナルプリント。撮影時期は不明だが、市内で自身が経営する自転車店に訪れた人を撮影したと考えられている。

 企画したのは同市本石で写真スタジオを主宰する写真家の新井英範さん(76)。9月に他界した世界的写真家の細江英公氏の門下生で、吉見町の奇想構造物「巌窟(がんくつ)ホテル」を主題に据えた作品などを発表している。

 虹二の作品に初めて触れたのは、94年に市内で開かれた回顧展。「世に残るべき作品」と確信し、東京都写真美術館(目黒区)、さらには米ヒューストン美術館などに、虹二の作品が収蔵されるように奔走、実現させた。

 初公開となる18点のオリジナルプリントは、虹二の長男、憲史さん(83)から「こんなものが見つかった。何かいい案はないだろうか」と託された。「どうせなら70年前のモデルを探して、ゆかりの方にプレゼントするのはどうだろうか」と、新井さんが提案。憲史さんも了解し、今回の写真展が実現した。

 笑っている老人がいれば、考え込むような表情を浮かべる若者も。眼帯姿の女性の姿は見る者に鮮烈な印象を残す。多くが極端なまでのクローズアップ。「クローズアップレンズの普及以前に、工夫してレンズの焦点距離を延ばして撮影している。虹二はクローズアップ写真の先駆者なんです」(新井さん)。

 その効果であろう。人物の内面にある心情までが立ち上る。企画展を手伝う唐﨑瑞穂さん(46)は「古い写真なのに、血肉を持った今に生きる人間として迫っている。そんな写真家はなかなかいません」と評する。

 憲史さんは言う。「中学生の時に父は亡くなりましたが、個性を重んじて育ててくれたと思っています。人間尊重の父の姿勢がよく感じられる作品です」。なるほど、対象を見る虹二のまなざしは優しく、人間賛歌のように感じられる。

 新井さんは「理屈じゃない。絵画のような構図の先進性などを感じ取ってもらいたいんだよね」と、口元を引き締める。今、全国各地を回って自分でしか撮れない情景を切り取ろうとしている。タイトルは決まっている。「JAPAN」。たぶん、自身の感性を磨く意味も込められた虹二展なのだろう。

 展示会は新井さんの写真スタジオ(同市本石2の17)で。開館時間は正午から17時。問い合わせは(ka.hayabusa8823@gmail.com)。

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