沖縄に来るときには、日本語が通じる外国だという覚悟で臨むべし?(沖縄料理の一例) KPG-Payless2-shutterstock

<時間の流れも、料理の中身も、本土と異なる。沖縄の人は「70点主義者のテーゲー」で、まるで華僑のようらしいが、本当はそれでいいのかもしれない>

書名に「知っておくとビジネスも人間関係もうまくいく!」と副題がついていることからも分かるように、『沖縄ルールーー知っておくとビジネスも人間関係もうまくいく!』(伊波 貢・著、あさ出版)は基本的にはビジネス書である。

つまり、沖縄の人とやりとりをするビジネスパーソンを対象としているわけだが、純粋に沖縄の人の感じ方や考え方などを理解するためにも役立つのではないかと感じる。

逆に言えば、沖縄の人と交流するのであれば「沖縄ルール」、すなわち「沖縄の常識」を知っておく必要があるということなのかもしれないが。


 沖縄へ移住・転勤してくる方には、沖縄社会にしっかりなじむ人もいれば、「だから沖縄の人はダメだ」とプンプン怒って短期間で帰る人もいます。その違いは何でしょうか。「オキナワ・ルール」を理解せず、従来のやり方のまま、沖縄で仕事や生活しているためではないか、と私は考えています。もちろん、日本国内のローカルエリアでも同様の現象が起きていると思いますが、その振れ幅が沖縄の場合、大きいのだと思います。(「はじめに 沖縄に来るときには、日本語が通じる外国だという覚悟で臨むべし」より)

「沖縄進出コンサルタント」という変わった肩書きの持ち主でもある沖縄出身の著者は、このように分析している。

清国の影響を受けつつ琉球王国として450年も栄え、明治初期に日本に編入。さらに戦後の米軍統治下を経て、1972年にようやく日本に復帰したという特異な歴史が沖縄にはある。

そうしたプロセスを経てさまざまな国の影響を受けてきた沖縄の人々に接するのは、ナイチャー(沖縄県外の日本人すべてを指すことが多い)にとって困難であり、違和感を抱えるのも当然なのだ。

もちろん、ウチナーンチュ(沖縄の人)にとってもそれは同じだろう。お互いに、ストレスがたまってしまう関係性だということだ。

沖縄出身である著者自身、大学卒業後に東京の証券会社で働いたのち沖縄に戻ってきたときには、かなりのカルチャーショックを受けたそうだ。仕事の質や進め方、対人関係など、ひとつひとつのことに違和感を抱いたというのである。

沖縄の人ですらそうなのだから、内地の人に心労がたまっても無理はない。しかも、両者ともに自身のバックグラウンドに従って生きてきただけなのだから、どちらかが悪いわけでもない。

だから厄介であるわけだが、そこで本書において著者は、さまざまな疑問の背景にある"沖縄の人の考え方"を解説しているのである。いくつかピックアップしてみることにしよう。

「テーゲー」思考のススメ

沖縄文化を表現することばのひとつとして、著者は「テーゲー」を挙げる。「大概」に由来する方言らしいが、つまりは物事を徹底的に突き詰めて考えず、"ほどほどの加減"で生きていこうという概念である。

だが内地の人間にとってそれは、仕事がいい加減など、ネガティブな印象につながりやすくもあるだろう。


 しかし、大城太『最強のうちなーシンキング』では、70点主義者のテーゲーだからストレスが溜まらない、華僑と同様の思考である、独りよがりの完璧を目指して疲れるよりも、スピードを重視して、ある程度の出来の段階で確認を入れて進めるのがネット時代の仕事の仕方と説いている。日本はものづくり国家ゆえか、完璧に仕上げようという意識が強い国民性だと思うが、沖縄のほうが世界感覚に近いのかもしれない。(33ページより)

確かに私たちの心のどこかには、仕事にしてもプライベートにしても「完璧で当然」という思いがあるのかもしれない。

まずは70点主義で行動し、次の展開を柔軟に考え、不足分については人の助けを借りたり、違った方法を考えたりするなどの余地を残すと考えれば、テーゲー主義も悪くないだろう。というよりも、本当は「テーゲーであるべき」とも言えそうだ。


 沖縄では、「3時ぐらいに来るさぁ」という言い方をしばしばする。本土の人が沖縄で仕事をすると戸惑う表現だろう。"ぐらい"ってなんだろうと。この"ぐらい"の幅は意外に広い。10分前に来ることもあれば、30分過ぎに来ることもあるだろう。華僑でも、同様にゆるアポという概念があるらしい。ビジネスだと無責任だと憤慨する人もいるだろうが、時間を守るということが目的ではないはずだ。その時々でビジネスチャンスを逃さないように敢えて時間のゆとりを持たせるわけだ。(34〜35ページより)

なるほど「完璧であること」に縛られすぎず、相手のゆるさを許容できる姿勢があれば、ストレスを感じることも少なくなりそうではある。

なぜマーガリンをバターと呼んでも平気なのか


 沖縄では、食堂で「バターごはん」なるメニューが存在するなど、アメリカ文化の影響もあってバターをよく使用する。しかし、沖縄の人がバターと呼んでいるものの多くが、植物性のマーガリンだったりする。さすがに近年ではスーパーでも本物のバターを目にすることが増えたが、少し前までは黄色いパッケージの「ホリデーマーガリン」が沖縄のバター界の主役だった。(37〜38ページより)

そうしたゆるさは、もちろんマーガリンの話だけではない。例えば年配の方のなかには、孫が保育園や幼稚園に行くことを「学校に行っている」などと表現する人がいるという。保育園も小学校も、区別なく学校と呼んでいるわけだ。

こういう話を聞くと個人的には、なんとなく穏やかな気持ちになったりもする。知り合いとの日常会話であれば、その程度でも問題はないのだから。

また食べ物についても、沖縄と内地とでは同じ料理名であってもかなり異なることがあるという。


例えば、沖縄の食堂で見られる「味噌汁」というメニューは、もはやおかずである。本土では小さな椀でご飯の横に添えられるのが一般的だと思うが、沖縄では、どんぶりに盛り付けられ、ポークや卵、豆腐やレタスなど、ボリューミーで具だくさんな料理を味噌汁という。お酒を飲んだ翌日の身体に優しいメニューとしても重宝されている。(39ページより)

著者もこうしたことばや表現の違いをしばしば本土の人たちに指摘されるというが、肝心の沖縄の人にはいまひとつピンとこないらしい。理由は簡単だ。どちらでもいいことでしかなく、なぜ細かいことにこだわるのかと不思議に感じるからである。

なお食堂に関しても、興味深いエピソードが紹介されている。


ある人気食堂では、20名ほどが入る待合室で順番を待つのだが、順番待ちの名簿などはない。そして、店員が「次の方〜」と呼びかけると、お互い目で合図を送り合い、入ってきた順番どおりにお店に入っていくのだ。待合室に入った段階で、あの人が先、あの人はあとから入ってきた、など情報を正確にインプットしているのだ。声をかけるまでもなく、そこにいる人たちがなんとなく順番を把握して秩序が保たれているわけだ。(49ページより)

バス停でも同様で、周辺に並んだ順番をお互いに把握していて、バスが来た瞬間にゆったりと並び始めるのだそうだ。ただし高齢者や社会的弱者がいる場合には、先を譲るという心遣いもあるという。

つまりは相互調整力が高いからこそ、大きなトラブルにならないのだろう。そう考えると、沖縄には、多くの日本人がいつの間にか失っていた人間的な優しさが残っているとも考えられるかもしれない。


『沖縄ルール』
 伊波 貢 著
 あさ出版

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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)、『書評の仕事』(ワニブックス)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。



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