TBS日曜劇場枠で放送中の『海に眠るダイヤモンド』。神木隆之介を主演に据え、1950年代の端島(長崎県)と現代の東京を結ぶストーリーが描かれる。物語の舞台となる端島は、長崎港から船で約40分のところに位置しており、「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」の産業遺産群の一つとして、世界文化遺産に登録された半人工の島。
岩礁の周りを埋め立てて造られた海底炭鉱の島には、日本で初めて高層鉄筋コンクリートのアパートが建てられた。最盛期には約5300人もの人が住み、当時世界一の人口密度を誇るほど賑わっていた。さらに、端島炭鉱の石炭はとても良質で、日本の近代化に大きく貢献した。
劇中に登場する、現代の東京からは想像できない環境での暮らしは、一体どんなものだったのか。本作の監修を手掛ける黒沢永紀氏の解説とともにひも解いていく。
日本初の海底水道完成で島のライフラインが整う!
島を襲った台風の影響で給水船の運航がしばらく止まり、海水での生活を余儀なくされた島民たち。実際の端島でも同じようなことが幾度となくあったという。
台風がこなくとも川や湧水などの水源がない端島では、水は大変貴重なもの。海底水道ができる前の端島には、1日に3回、真水を運搬する船がやってきて1500トン分のタンクに貯水。炭鉱長の邸宅や職員住宅には水を運ぶ従業員が。炭鉱員たちは毎日自分で、給水栓のもとへ行き、水券と交換に水を自宅へ運んだ。1日に1回汲んだ水を水瓶に溜めて、少しずつ大切に使っていたのだ。
炭鉱員の風呂も一番湯と二番湯までは海水、上がり湯のみ真水だった。「いくつかの浴槽を経由して汚れを落とし、最後に真水のシャワーで洗い流す。炭鉱員は怪我も多かったと思いますが、おそらく海水が滲みて痛かったのではないか」と、黒沢氏は推察する。風呂と同じように多くの水が必要な学校のプールも海水を使用。特にタンクの水がなくなると、各家庭でも洗濯の下洗いに海水を使用するなど、工夫して生活する必要があったのだ。
そんな日常の不便さを解消するために立ち上がったのが、海底水道プロジェクト。アメリカの原油パイプライン技術を参考に、端島と隣の高島を、本土の野母崎の水源と繋ぐ、水深45メートル、延べ11キロメートルにも及ぶ、世界でも類を見ない日本初の海底水道が造られた。
海底水道の完成後は各家庭の蛇口を捻れば水が出るようになったのだが、それまで制限されていた反動もあってか水の使いすぎが多発。最初に用意した水源地だけでは足りなくなり、最終的に大きな貯水池を造るまでの5年ほどは節水生活が続いたという。
「本日もご安全に!」地底を掘り進む海底炭鉱での作業は命懸け
過酷な環境下で行われる炭鉱員の仕事は、文字通り命懸け。「危険と隣り合わせの坑内での作業は日々恐怖とのせめぎ合いだったと思います。落盤や坑内火災、そしてガス爆発など、坑内での作業は様々な命の危険と隣り合わせでした。特に切羽(きりは)と呼ばれる最前線で石炭を採掘する採炭員や坑道を掘り進む掘進員は、確実に粉塵を吸い込んでしまうので…」。予期せぬ事故はもちろんのこと、長きにわたり坑内で働くことで作業中に粉塵を吸入し、「珪肺(けいはい)」という病を患う可能性もあったのだ。主人公の父も長きにわたり炭鉱で働いているため、肺が限界を迎え週に3日しか働けなくなっている。
炭鉱での仕事は専門職。ジョブローテーションのようなシステムはなく、基本的に一度就いた担当から変わることはなかったという。そして、同じ炭鉱員でも坑外で働くほうが肺の病を患う可能性は低かったのだが、最前で働く炭鉱員はみんな自ら希望するのが基本だったそう。「採炭の仕事は一番給料がいいけれど、それは命を危険に晒す作業を覚悟の上での仕事でもありました」と、黒沢氏は思いを巡らせる。
原料がダイヤと同じ炭素であることから“黒いダイヤモンド”といわれた石炭。当時、端島が産出する石炭の単価は国内で一番高く、それ故に端島の人々は豊かな生活を送ることができたのだ。
黒沢氏は、福岡・筑豊の炭鉱で働き、その様子を記録に残した山本作兵衛についても言及。彼は後に国内初の「世界記憶遺産」となった自伝にこう記している。
「炭鉱は日本社会の縮図」――
日本各地から集まってくる島で働く人々の中には、企業のエリートだけではなく、さまざまな事情を抱えた人がいたという。「その環境は社会の構造そのまま。まるで端島が1つの国家のようだったんです」と、黒沢氏は現代日本を築き上げた、国家の縮図のような端島に思いを馳せるのだった。
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