主人公の大尉(左)は亡命中の南ベトナムの将軍やCIA職員クロード(右)に忠実なふりを続けていくが…… HBOーSLATE
<潜入したアメリカは収容所、ベトナムは世界の中心――。同名のピュリツァー賞小説を原作に、皮肉で洗練された作品に仕上がった>
戦争は決して死なない──独立系製作・配給会社A24と米ケーブルテレビ局HBOのドラマ『シンパサイザー』のある登場人物は、そう言う。息を潜めているだけだ、と。
4月中旬に第1話が配信された本作は、ベトナム系アメリカ人作家ビエト・タン・ウェンが2015年に発表し、ピュリツァー賞を受賞した同名小説『シンパサイザー』(邦訳・早川書房、クリックするとアマゾンに飛びます)が原作だ。アメリカの代表的なベトナム戦争小説と異なり、ウェンの作品は戦争が終結した1975年のサイゴン陥落から始まる。
だが主人公の「大尉」にとって、戦争は終わらない。北ベトナムのスパイで、南の将軍の側近として潜入していた彼は故国を離れ、アメリカで将軍の忠実な部下という偽装を続けることになる。ベトナム難民コミュニティーについて、本国に情報を送るためだ。
ドラマ化を共同で手がけた映画監督パク・チャヌクとドン・マッケラーは、複雑で内省的な原作小説を、時に息切れしながらも、超現実的な味わいのある洗練された作品に仕上げている。
「私はスパイ。スリーパー(潜伏工作員)でスプーク(諜報員)。2つの顔を持つ」。拘束中の収容所で記した告白文を読み上げる大尉で副官(ホア・シュエンデ)のナレーションで本作は幕を開ける。
■本作の予告編を観る
1人4役のダウニーJr.
「何ごとも両面から見る」という才能、あるいは呪われた能力の持ち主である彼は、自身の二重性を意識せずにいられない。フランス人司祭とベトナム人少女の間に生まれた息子という事実に、周囲の人間が触れ続けるからだ。難民として渡米し大学を卒業後、体制打倒を目指しながら支持者を装ってきた彼は入り組んだ忠誠心の間で引き裂かれ、身動きが取れなくなる。
「副官は卒業?」と、将軍の反抗的な娘(ビー・レー)は再会した大尉をからかう。いや、彼は今も「副官」だ。
彼は常に年上の有力者の庇護下にある。将軍(トアン・レー)とその夫人(グエン・カオ・キー・ズエンの威厳ある演技が光る)より先に難民収容施設を出ることができたのは、アメリカ留学時代に世話になった東洋学教授が身元保証人になってくれたから。将軍や本国の上司、将軍と米政府の連絡係であるCIA職員クロードの指示に従う大尉は、受動的役割に追いやられているように見える。
東洋学教授を「ゲイ感」たっぷりに演じているのは、ロバート・ダウニーJr.だ。クロード役も、ベトナム新政府の転覆を企てる将軍に資金提供する政治家役も、ベトナム戦争映画のコンサルタントとして大尉を雇う監督役も......。
つまり、主要なアメリカ人登場人物の大半を、ダウニーJr.一人が演じている。最初のうち、この選択は人種差別的な「あの人たち、見分けがつかない」という侮辱の裏返しとして機能する。4人のアメリカ人男性は、それぞれ異なる形とはいえ、いかにもアメリカ人的にグロテスクだ。
魅力的な主役の末路は
教授は研究室を障子で飾り、日系アメリカ人の秘書(サンドラ・オー)に向かって自身の文化に無関心だと文句を言う(「私はアメリカ人です」と、秘書は言い返す)。映画監督は大げさなかんしゃくを起こし、政治家はご想像どおりで、嘘くさい日焼け肌のCIA職員はシニカルだ。
こうした風刺は少量なら、大きな効果がある。だが本作の最大の欠点は、ダウニーJr.の過剰な演技がだらだら続くせいで停滞に陥ることだ。
オリバー・ストーン監督やフランシス・コッポラ監督のベトナム描写を皮肉るような大尉の映画業界体験は、原作の最高に笑える部分の1つ。だがドラマ版では、早くダウニーJr.が退場して、ベトナム人俳優たちが再登場してほしいと思ってしまう。
本作は、ベトナムが世界の中心のような感覚を見事に生み出している。ひどい食べ物やみすぼらしい建物、ネズミとゴキブリだらけのアメリカは大尉と同胞にとって別種の収容所であり、流刑地だ。
感傷や単純なイデオロギーに抵抗する原作小説の姿勢は、ドラマ版にも共通している。「ここには戻ってくるな」。帰りたいと懇願する大尉に、本国の上司はそう警告する。
歴史の正しい側に立とうとする多くの者と同じく、大尉は恐ろしい行動をすることになる。この点で、彼の行動はつじつまが合わなくなる。
彼が信じる共産主義は、純粋な政治信念というより欧米の帝国主義への反動に映る。そのために、なぜこれほど犠牲を払うのか。彼にとって最も大切なのは少年時代からの親友2人だ。その2人は正反対の側に分かれ、それぞれがもっともな理由で戦っている。
こうした倫理的難問は多くの場合、魅力的な映像作品に昇華しない。本作の頼みの綱は、目をクギ付けにする主演俳優のカリスマ性だ。
シュエンデ扮する大尉は当初、自信過剰なほど冷静で、メンター役である人々の欠点や途方もない要求にエレガントに対応する。だが待ち受けているのは、不可能な状況がもたらす自身の崩壊であり、シュエンデは胸が痛むような弱さを表現してみせる。
コーエン兄弟の映画のように始まる大尉の物語は、ジョージ・オーウェルの小説のような世界にたどり着く。気の進まない道のりだ。戦争は終わり、自分たちの側が勝利したと、大尉は考えていた。だが、戦争は息を潜めていただけだったのだ。
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