「哀愁でいと」がヒットし、歌手としても脚光を浴びた=昭和55年

《出演した学園ドラマ「3年B組金八先生」(第1シリーズ、昭和54年10月から翌年3月まで放映)が高視聴率となり、一躍人気アイドルに。メディアへの出演が続くなか、次のステップに向けた準備が着々と進んでいた》


55年春からNHKの歌番組「レッツゴーヤング」への出演が始まるため、2月ぐらいからレッスンに臨みました。番組では僕のほか、松田聖子ちゃんや浜田朱里ちゃんらが、(番組のオリジナルグループ)サンデーズのメンバーとしてステージに立ちました。

聖子ちゃんはかわいかったですよ。よく覚えています。彼女は当時、ストライプのワンピースを着て歌っていた。彼女も僕のことを覚えていましたね。「田原くんはえんじのベストを着ていたね」と。彼女とは毎週2、3回、スタジオで一緒に稽古をしました。他のメンバーとともに「同じ釜の飯を食う」みたいな感じでね。彼女は僕と同じく、将来どうなるか分からない新人。このころは猛スピードで月日が過ぎていきましたね。


《「レッツゴーヤング」の仕事に加え、一緒に「金八先生」に出演した近藤真彦さん、野村義男さんとドラマ出演が相次いで決まり、多忙な日々に》


僕ら3人は日々、歌や踊りのレッスンをしていました。ドラマ出演は本筋ではないのに、エラいことになっていきましたね。雑誌では〝悪ガキトリオ〟として取り上げられるようになっていた。〝たのきんトリオ〟と言われる前のことです。

僕らの記事が掲載された雑誌は「セブンティーン」をはじめ、めちゃ売れていき、ほかにもいろんな雑誌が発刊されて、取材もすさまじかった。朝から晩までです。3人で回していました。イメージがどんどん作り上げられていきましたね。

人気が沸騰したため、所属のジャニーズ事務所(現SMILE―UP.)では「レコードを出すんだろう」「出さなきゃな」となっていました。事務所は第1弾は僕でいくと決めていて、6月に歌手として正式にデビューすることになりました。

曲は「哀愁でいと」。アメリカのアイドル歌手、レイフ・ギャレットの「ニューヨーク・シティー・ナイト」のカバー曲です。レコーディングがあって、取材にも対応しなければならず、もうてんやわんやで、何をしているか全然、記憶にないぐらい。体は不思議と壊れなかったですけどね。

「哀愁でいと」の発売日は梅雨の時期で、雨が降っていました。売れるのかどうか、ドキドキしていたのを覚えてます。それが新人でいきなり、オリコン上位に入ってしまった。記録だったと思いますよ。事務所はこれで気合が入ったと思いますね。「よし、来たぞ」と。これで一気にいきました。あそこからスタートし、今へと続きます。あれがなければ、その後のジャニーズ事務所はなかったかもしれないですね。


《「哀愁でいと」のヒットで、久米宏さんと黒柳徹子さんの巧妙なトークで人気の歌謡番組「ザ・ベストテン」への出演が決まった》


「ザ・ベストテン」にはほぼ毎週のように出演しましたね。54年3月に上京する前、甲府にいたころから見ていた思い出の番組です。「ジュリー(沢田研二)さんや山口百恵さんが出ていたな」と、感慨深かったですよ。

最初に出演した日、徹子さんはスタジオにいませんでした。ユニセフ関連の活動とかでヨーロッパに行っていた。僕が番組に初登場したとき、(映像の合成方法である)クロマキー技法を使ってスタジオに徹子さんが現れた。僕よりも大きかったんですよ(笑)。

スタジオでは「おー、久米宏さんがいる」とドキドキしましたね。甲府から出てきた少年なので…。ただ「やったなー。よしっ」とも思った。聖子ちゃんもドーンと来たし、そこから怒濤(どとう)の1980年代が始まったわけです。

(聞き手 黒沢潤)

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