2024年1月21日。過激なパフォーマンス集団「電撃ネットワーク」のリーダー、南部虎弾(とらた)の訃報が、朝から新聞やテレビで大きく取り上げられていた。
私はその頃、電撃ネットワークのメンバーや妻の由紀さんと共に、南部の遺体がある都内の病院の霊安室に座っていた。
ふと見ると、由紀さんが私に歩み寄ってくるのが見えた。
「私が『テレビには映りたくない』『家の中もイヤ』と言うと、頭を下げて何度も頼みに来るんですよ。『これが最後のテレビになるかもしれないから』って。あんなに一生懸命な南部は見たことなかったんです…」
由紀さんはそれだけ言うと、声を上げて泣き崩れた。
南部が由紀さんに掛けた言葉は現実になってしまった。しかし、由紀さんの泣き崩れる姿を見て、私は「南部虎弾の最後の日々が記録された取材映像で、この夫婦の物語を紡ごう」と心に決めた。
南部を生かすも殺すも自分の腎臓
妻は夫に自分の「腎臓」を一つ分け与え、夫は妻の「腎臓」で命を永らえ芸人として生きた。私は、これほど深い絆で結ばれた夫婦を見たことがない。
この記事の画像(6枚)由紀さんが南部と知り合ったのは18歳の時。
友人から電話番号を渡され、電話を掛けたのがキッカケだった。当時、由紀さんの実家は、伊豆・下田にあり、最初は文通からスタートし、修学旅行で東京に行った時に、後楽園遊園地で初めてデートした。そして由紀さんが19歳になるのを待って2人は結婚した。
南部はその時、38歳。年齢差は実に18歳だった。当時の南部は、ダチョウ倶楽部をクビになり、建設現場のアルバイトなどで生計を立てていた。南部はどんな思いで由紀さんを妻に迎え入れたのだろうか。
1990年。40歳手前の崖っぷち芸人だった南部は「電撃ネットワーク」を結成する。
そしておなじみの「洗剤を飲む」「サソリを口に入れる」「お尻でロケット花火を爆発させる」といった危険を顧みない、体を張った芸を次々と披露していく。
現在よりもコンプライアンスが緩いとされる当時の日本のお笑いの世界にあっても前代未聞の芸の数々。一度見たら忘れられない、破壊力を持ったネタで、電撃ネットワークは、瞬く間にお茶の間の人気者になった。
しかし、その過激さゆえの風当たりも強かった。「子どもがマネしたらどうするんだ」との声も上がり、次第にテレビから敬遠されるようになる。
「自分たちの笑いは、どうして理解してもらえないのか?」
しばし悩んだものの、南部の発想の切り替えは早かった。活動の舞台を日本ではなく、海外に移したのだ。
南部にはビジネスの才能もあったと思う。
1991年10月、デーブ・スペクター氏が命名した「TOKYO SHOCK BOYS」として、ロサンゼルスの人気バラエティー番組「ベスト・オブ・ザ・ワースト」に出演。
そこから地道に海外での活動を続け、1994年にはオーストラリアで音楽を取り入れた初の本格的ツアーを企画。これが大当たりした。40日間で77公演を実施。これが世界での評価を決定づける。
ヨーロッパやアメリカにも呼ばれ、夢だったニューヨーク・オフ・ブロードウェイ公演も成功させた。
しかし、とことんまで体を酷使する芸に加え、不摂生も重なり、南部は2011年、60歳で糖尿病と診断される。しかし、海外公演は忙しく、南部はそれを放置し続けた。
2017年には、心不全を起こし8時間の心臓バイバス手術で一命を取り留める。そして心臓の次にひどくなったのが腎臓。糖尿病が悪化した場合の“お決まりコース”だった。
医師から人工透析を勧められるが、南部はそれを拒否。ステージに上がり続けた。
南部は芸人として「生涯現役」を貫きたかったのだ。
そんな南部に「夫婦間腎移植」を提案したのは、妻の由紀さんだった。人工透析よりも平均余命が長いと言われる「腎移植」。しかし術後は免疫抑制剤を飲み続けなければならず、健康管理が難しい。
由紀さんは、ドナーとして腎臓を提供するだけでなく、南部の健康管理に注意を払わなければならなかった。
好きだったお酒をやめ、南部のために料理を一から勉強し、暮らしを支えるため慣れないパートにも出るようになった。通院には必ず付き添い、検査結果を細かくチェックする。
自分の腎臓が、南部の体の中でちゃんと機能しているかどうか。それだけを気にして生きていた。南部を生かすも殺すも自分の腎臓、そう思っていたのかもしれない。
しかし、問題は別のところで起きてしまった。
集合場所に南部の姿はなかった
2024年1月20日。新年初めてのメンバー全員による営業と聞き、同行取材に出かけた。
静岡で行われるプロバスケットボールチームの試合で、電撃ネットワークはハーフタイムショーに出演することになっていた。呼んでくれたのは、昔から南部と親交があった地元企業の社長さん。
午前7時半にメンバーは新宿駅に集合。そこからレンタカーで移動するはずだった。
しかし、時間になっても南部は一向に姿を現さない。
若手リーダーの今日元気(きょうも・げんき)さんに聞くと、「面倒くさくなったんじゃないですか」と目をそらす。私は南部に事情を聞こうと電話したが、応答はない。メンバーは南部不在のまま静岡に出発し、ステージを精一杯盛り上げた。観客は大喜びだった。
その後も私は南部に連絡を取り続けたが、やはり応答はない。
食事を終えてホテルに戻ると、元気さんから「ダンナ(ダンナ小柳)さんから、話があるので来てほしい」と電話があり、私は南部の身に起きたすべてを知ることになる。
それは静岡営業前夜の午後10時のことだった。
由紀さんがパートから帰宅すると、南部は布団の上に仰向けに倒れていたそうだ。そして由紀さんに「救急車を呼んでほしい」と言ったのを最後に、意識を失った。
最寄りの病院に救急搬送され、医師から「脳卒中」と告げられた。
脳卒中には、脳の血管が詰まる「脳梗塞」と、脳の血管が破れる「脳出血」があるが、南部は後者だった。出血がひどく手の施しようがないと言われた。
由紀さんから連絡を受けて駆けつけたのは、ダンナ小柳さんと元気さん。
3人一緒に朝まで付き添ったが、南部の意識は戻らなかった。メンバーは、後ろ髪を引かれる思いで静岡の営業に出発していたのだ。
静岡営業が終わった日の夜、2024年1月20日午後11時55分、南部虎弾はこの世を去った。
72年の波瀾万丈な人生だった。
後日、南部の主治医を訪ね、改めて取材した。
「南部さんは、血圧も血糖値も、奥さんの力できちんとコントロールされていた。しかし、移植前に進行していた脳の動脈硬化はどうすることもできなかった」
その話を聞いて、進行するともう後戻りができない「糖尿病」の本当の恐ろしさを知った。
「喪服禁止」の葬儀・告別式
「もう南部について何も語りたくない」
南部が亡くなった後、由紀さんからそう申し出があった。由紀さんにとって、南部の死はあまりにも突然だった。心の整理がつかず、その死を受け入れられない状態が続いていたようだった。
私は由紀さんの申し出に同意した。
「電撃ネットワークのステージはあえて見ない」と由紀さんは決めていた。「男の仕事に口出すもんじゃない」と南部から厳しく言われてきたのだろう。これまでテレビ取材を頑なに拒んできたのも、それが理由かもしれない。
私といえば、南部虎弾がいなくなった電撃ネットワークがこれからどうなるのかが気懸かりで、取材を続けていた。
しかし、1月28、29日に東京都内の斎場で営まれた通夜・葬儀・告別式では、由紀さんは努めて明るく振る舞っているように見えた。
全身を南部虎弾の衣装で覆い、訪れる弔問客らを笑顔で迎え入れ、南部の衣装を着せて一緒に記念撮影を行っていた。
それは自らが南部虎弾になりきることで、自分の感情をどこか遠くに押しやろうとしていたのかもしれない。
葬儀の参列者に「喪服禁止」「できるだけ派手な衣装でお越しください」というドレスコードを出したのも由紀さんのアイデア。仮装した弔問客であふれた斎場は、さながらハロウィーンパーティーのようだった。
さすがにテーマ曲にあわせ全員で踊ったことが問題になり、後日、斎場からは出入り禁止が言い渡されたそうだ。
この頃、私たちの間でちょっとした話題になったのが、南部から届く謎のメッセージだ。
葬儀のあと、私が南部に「安らかに眠ってください」とLINEで追悼メッセージを送ると「既読」が付き、「きょうは大変にお疲れさまでした」と返事があった。一瞬「エッ!」と思うのだが、すぐに、妻の由紀さんの仕業だと気づいた。
気が重い取材が続いていただけに、このメッセージで心が少し軽くなった。
由紀さんは南部のアカウントを使って弔問に来てくれた人、ひとりひとりに、こんな形で“お礼状”代わりにメッセージを送っていたようだ。当然、受け取った方は大騒ぎになるが、これも由紀さんが考えついた、明るく南部をあの世に送る妙案のひとつだったのかも知れない。
「いい思いをたくさんさせてくれた」
南部が亡くなったあと、由紀さんが一度だけカメラの前に立ったことがあった。それは、沖縄の海での散骨を終え、3月23日に東京・品川ザ・グランドホールで開かれた「南部虎弾&エスパー伊東 お別れ会」だった。
生前の南部から「俺が死んだら、みんなの前で俺と同じ髪形になれ」と密命を受けていた若手リーダーの元気さん。各局のカメラの前でそれを実行する日がきた。
最初は楽屋で由紀さんと断髪式を済ませステージに上がるつもりだった。しかし、ギリギリになって「ステージの上で断髪してもいいよ」と由紀さんが言い始めた。
マスコミのカメラが並ぶ中、由紀さんは深々とお辞儀をし、ステージに上がった。そこにはもう南部虎弾の衣装ではなく、普段の自分に戻った由紀さんの姿があった。元気さんを慣れた手つきで「南部ヘア」に刈り上げ、静かにステージを降りた。
2024年4月。これまでの取材のお礼を兼ねて、私は由紀さんを訪ねた。
19歳で結婚してから、南部とずっと住み続けてきた古いアパート。電撃ネットワークが売れっ子芸人になり、年収が1000万円を超えても2人はこのアパートの小さな部屋に住み続けた。
「南部は本当にいい思いをたくさんさせてくれたんですよ」
由紀さんは、私に思い出を語ってくれた。
南部の衣装で埋め尽くされていた部屋は、少しだけ片付いたように見えた。「お線香をあげさせてください」と言うと、奥の部屋に案内された。小さな仏壇にポツンと置かれていたのは南部の「喉仏」だ。仏様が手を合わせているように見える骨を見ながら「これだけ残したんですよ」と由紀さんは教えてくれた。
散骨用に粉骨し、残った骨はメンバーのランディー・ヲ様さんが「いつかこれで砂時計をつくりますから」と言って、すべて持ち帰ったらしい。
今回の取材で、ひとつだけ心残りがあるとすれば「南部さんにとって由紀さんはどんな存在ですか?」と質問した時のことだ。「そんなの本人の前で言いたくないよ」と笑ってごまかされてしまい、結局、その答えは聞けないまま、南部はいなくなってしまった。
それでも南部に尋ねてみたい。
「南部さん、いや、佐藤道彦さん(本名)。あなたにとって、ずっと人生を連れ添った由紀さんは、どんな存在だったのですか? いつか私に、こっそりと教えてください…」
(取材・記事:朝川昭史)
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