心が震える-。沖縄県石垣市に暮らす88歳のジャズ歌手の歌声が、静かな話題になっている。齋藤悌子さん。2年前にインディーズで出した初CDをきっかけに、じわじわと注目され、ついには東京のステージに立った。その歌声は、なぜ聴く人の心を震わすのか。
まさしくジャズ
昨年12月。齋藤さんは2度目となる東京の舞台を踏んだ。400人近くを収容する有楽町の劇場。
小柄な齋藤さんは、ピアノ、ベース、サックスからなるトリオを従えて舞台中央に立った。
ピアノに米国のデイビッド・マシューズさん(82)が座ったのも話題だった。1980年代、マンハッタン・ジャズ・クインテットを率いて、日本でことさら高い人気を誇る親日派のピアニストだ。
齋藤さんは、「テネシー・ワルツ」「ダニー・ボーイ」など広く知られた曲を取り上げ、元来美しい旋律を丁寧にさらに美しく紡いでいく。澄み渡る歌声は、聴く人の心の奥底まで染み渡る。
急速調の4ビートに乗ってスキャットを繰り出す類型的なスタイルとは一線を画するが、長く革新的なベース独奏の後を受けてから歌い出すなど、即興的で挑戦的な音楽は、まさしくジャズなのだ。
夫のギター
昭和10年、沖縄の宮古島市に生まれた齋藤さんは、那覇市の高校に進学し、音楽教諭の勧めで歌手のオーディションを受けた。
米軍統治下の沖縄の基地で演奏をしていたジャズギタリストで、後に夫となる齋藤勝さんのバンドが募集していたのだ。
ジャズは知らなかったので、オーディションでは「お門違いの『アヴェ・マリア』を歌いましたが、夫が採用してくれた」と笑う。
齋藤さんは28年から、勝さんのバンドで歌い始めた。渡米して歌の勉強をしないかという誘いも受けたが、「勝さんのそばにいたい」と断り、25歳で勝さんと結婚した。
那覇から千葉県へ、さらに石垣島へと転居し、一女一男をもうけ、子育てに追われ、歌から離れたこともあったが、齋藤さんにとって、歌うということは、勝さんに寄り添うということだったのだろう。
初CD
だから、勝さんが平成7年に亡くなると、「夫を思い出して、つらい」と歌えなくなってしまった。
誘われて通ったフラダンス教室でハワイアンを口ずさみ、再び歌と向き合えるまでに15年以上かかった。
「乗り越えられたのかしら? 歌っていると寂しさが蘇ることは、まだ、ある」
令和元年頃、旧知の石垣島のジャズクラブの店主から「歌声を記録しておくべきだ」と提案されて吹き込み、2年6月に発売したのが初アルバム「Teiko Saito meets David Matthews -A Life With Jazz-」だった。
店主が、ピアニストのマシューズらに声をかけて伴奏陣を集め、店で録音した。
86歳での初CD発売。歌を離れていた時期も長かった齊藤さんにとって、人生の〝記念品〟で終わってもおかしくなかったが、これが専門誌「ジャズ批評」の「ジャズオーディオディスク大賞2022」特別賞に選ばれた。
さらに齋藤さんを特集した琉球放送(RBC)のラジオ番組が第60回ギャラクシー賞でラジオ部門の大賞を受賞し、NHKの特集番組は全国で放送され、「徹子の部屋」(テレビ朝日系)にも招かれた。
ベトナム出征の若い兵士が齋藤さんの歌を聴いて泣き崩れた逸話も紹介され、〝泣ける歌声〟は、じわじわと注目された。
健康でいたい
「私の歌に感動してくださるのか、曲に何らかの思い出があって、じっくりと聴いてくださるのか。なぜ、泣く人がいるのか、そのへんのことは私にもわかりません」
ニコニコしながら、淡々と語る齋藤さん。昭和10年10月10日生まれ。秋には89歳になる。
「先のことですか? まったく何も考えていません。ただ、健康でいたい。私の健康法は歌うこと。声が出なくなることは怖い。だから、毎日15分ほどですが、ボイストレーニングはやっていますよ」
今月23日には3度目となる東京のステージに立つ。神戸と福岡を含めて計4公演の春のコンサートツアーだが、チケットは、いずれも、あっという間に売り切れた。(石井健)
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