自民党総裁選(9月12日告示、27日投開票)は現職の岸田文雄が不出馬を表明したことが引き金となり、10人以上が出馬に意欲を示す混戦模様となっている。1955年の結党以来、ほとんどの期間で政権を担ってきた自民党。首相ポストに直結する総裁選は派閥の力を誇示する機会でもあり、「権力の興亡」の舞台となってきた。
自民党は55年11月、「保守勢力の結集」を目的に自由党と日本民主党が合同して結成され、翌年4月に鳩山一郎が初代総裁に選出された。後を継いだ石橋湛山、岸信介、池田勇人を経て、佐藤栄作は7年8カ月に及ぶ長期政権を築いた。
立候補に一定数の推薦人を必要とする規定が最初に適用されたのは72年だ。「三角大福」と呼ばれ、それぞれ派閥を率いた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人が出馬し、田中が制した。54歳での首相就任は当時、戦後最年少だった。
78年は初めて党員による予備選が実施され、首相の福田に幹事長の大平ら3人が挑んだ。ロッキード事件で起訴された後も強い影響力を維持していた田中が大平を全面的に支援し、現職の福田が敗れる番狂わせとなった。
金権スキャンダルで下野
自民党が初めて下野したのは93年。リクルート事件など金権スキャンダルが重なるなどして同年の衆院選で惨敗。総裁に選出された河野洋平は首相に就任できない初のケースとなり、非自民の細川護熙内閣が発足した。
激しい権力闘争の中で「名言」が生まれることもある。
2003年の総裁選では、現職の小泉純一郎を支持するか否かで、小泉と対立する立場にあった最大派閥の橋本派(平成研究会)が分裂。小泉支持に回った村岡兼造に対し、野中広務が「毒まんじゅうを食った」と批判した。
野党時代の12年には幹事長の石原伸晃が立候補の意向を示したことで現職の谷垣禎一が不出馬に追い込まれた。石原は「平成の明智光秀」と批判されて失速し、安倍晋三が総裁に返り咲いた。安倍の在任日数はその後、佐藤を上回って憲政史上最長を記録した。
21年は現職の菅義偉が新型コロナウイルス対応などで低支持率に苦しみ、出馬を断念。岸田が河野太郎らとの接戦を制した。(敬称略)【小田中大】
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