44年間の議員生活を振り返る菅直人元首相=10月8日、国会内で(由木直子撮影)
◆お金まみれの自民党の体質、分かりやすく指摘を
―自民党の裏金事件で政権交代の機運が高まっているが、野党間の選挙区調整は進んでいない。2009年の政権交代を経験した立場から、どう見ているか。 「引退する身なので、具体的にこうしろ、ああしろとアドバイスするのは言い過ぎだと思うが、今は日本の政治にとって非常に良くない状況だ。現役の、後輩の皆さんにぜひ頑張ってもらいたい。もう一度政権交代を実現してもらいたいと願っている」 ―立憲民主党の支持率はあまり上がっていない。何が足りないと思うか。 「やっぱり国民の理解だ。今の自民党は結局のところ、お金まみれ。そういう体質を国民もある程度分かっていながら、なんとなくそのまま見逃す、そんな状況が続いている。自民党の体質について、もっと厳しく、しっかりと国民に分かりやすく指摘していく必要がある」 ―2010年の参院選前に、首相だった菅さんが消費税増税を打ち出して、民主党は惨敗した。今回の立憲民主党の衆院選公約では、消費税減税を盛り込んでいない。 「あの時の発言は、やや私自身の思いを超えて受け止められた。今でも反省している。税の問題は、野党として政権をひっくり返す一つの大きな政策的ポイントだから、しっかりと取り組んでもらいたい。今の状況で(消費税について)重点的に言うか言わないかは、一つの戦略的判断だ」 ―野党連携では共産党との距離感をどう取るべきか。 「私はそんなに、共産党だからといって最初から排除する発想はない。ただ、政策的に共通する部分と違う部分があるから、それは区別しないといけない」 ―野田佳彦代表は、共産党とは政権をともにできないとはっきり言っている。一方、日本維新の会には積極的に対話を呼びかけている。 「選挙区によっては、共産党が出さないことでうちの党が有利になるところもある。共産党が出したところには(立憲民主党は)出さないで、自民党と立憲民主党の戦いにした方がいいところでは配慮してもらうとか、そういうことはあっていいんじゃないか」 「私は維新という政党があまりよく分からない。隣(維新の馬場伸幸代表は議員会館の部屋が隣)とけんかすることもあるが、あまり筋が通る政党とは感じられない」◆「豪腕」小沢一郎さんには期待している
<民主党では2010年、菅直人首相が消費税増税の検討を掲げたことや、陸山会事件を巡る小沢一郎元代表の処遇問題などで、党内対立が激化。菅氏と小沢氏が争った2010年9月の党代表選は菅氏が制したが、その後も小沢氏に近い議員らによる菅首相への退陣要求や、民主党会派離脱・離党の動きが続いた>
旧知の記者からの質問に顔をほころばせる菅直人氏=10月8日、国会内で(由木直子撮影)
―小沢一郎氏が党の選挙対策本部長代理として選挙指揮をとることになった。かつて菅内閣の倒閣運動を主導した小沢氏には複雑な思いもあると思うが、何か注文は。 「小沢さんは自民党時代から、豪腕というか、そういう(選挙指揮の)能力が高いし、ある状況の中で問題提起するのも非常に迫力がある人だ。今回もまた前面に出て、野田代表のもとでそういう役目を担っていただけるのは、私は期待している。(過去に)いろんな場面があったことは覚えているが、良かった、悪かったということを言う段階では、私の気持ちとしてはもうない」 ―党の衆院選公約で国会議員の世襲制限を打ち出した。菅さんの長男は地元で市議を務めているが、政治家の世襲をどう考えるか。 「民主主義だから、基本的にはみんなが同じ一つの土俵で選挙をやるべきだ。親の地盤があって、政治資金も含めて息子や娘に譲っていくのが大きな割合を占めるのは、民主主義のあり方として間違っている」 「世襲で政治家になっている人は、ほとんど東京で育っている。親から選挙地盤だけ継いで、地元で生活をしていない人もたくさんいる。やっぱりおかしい。政党もきちんとチェックするべきだし、何といっても有権者がそういう候補者をどんどん当選させてしまっているところに究極の問題がある」 「息子は、本人がそういう立場で仕事をしたいと決断した。衆院議員を譲るわけではない。私はわざわざ勧めもしなかったが、特別に止めるということもしなかった。本人の判断だと思っている」◆今さら原発に戻ろうなんてボソボソ言っている人が…
記者会見で質問に答える菅直人氏=10月8日、国会内で(由木直子撮影)
―首相時代、福島第1原発事故の現場に行ったり、東京電力本店に乗り込んだりした対応は批判もされた。今、どう考えているか。 「(事故発生の)翌日だったか、現場に行ったのは、結果としてだけでなく、そうすべきだったし、間違っていなかったと思っている。あの時の原発事故は、ちょっと間違っていれば関東地方が汚染されて、東京も含む地域が住めなくなる、そういう最悪の事態すらあった状況だと、当時も見ていたし、今思い起こしても見ている。何とかそこまで拡大しないで閉じ込められたのは、もちろんいろんな関係者の努力があったおかげだが、私も責任者として全力を挙げた」 ―東電本店に乗り込んだことも、評価は二分している。 「当時の評価はともかくとして、現在の評価はそんなに二分しているとは思わない。東電本店には現場とつながっているテレビモニターがあるが、こちらはそんなことは知らない。行ってみたら全部つながっている。それによって現場の状況が非常によく分かるようになった。私の行動スタイルは現場主義的なところがある。この場面では、そのことは事態を把握して対応を取る上で、非常に効果的だったと思う」 ―首相退任後は脱原発の活動に取り組んできたが、その後の自民党政権では原発復権の動きが強まっている。 「逆に言うと、原発が今日まで、必ずしもどんどん復活していないというところに、あの時の教訓が生かされている。今、太陽光発電など、もっと安全で、かつ十分に必要な電力を供給できる手段があるわけだから、今さら原発に戻ろうなんていうのは、ボソボソ言っている人がいるが、必要もないし、そうすべきではないと強く考えている。私より以降の政治家が間違った道を取らないように、私自身は現役ではなくなるが、よく見張っておきたい」 ―立憲民主党の衆院選公約では「原発ゼロ」を書いていない。 「公約をどう表現をするかは、それぞれの時の執行部が判断するのだろうが、あの時以来、原発がなくても十分に、必要な電力は供給できているのだから、どこまで強く言うか言わないかは別として、それは国民的な合意に事実上なっていると感じている」◆安倍晋三元首相による批判は「大うそ」
薬害エイズ事件と福島第1原発事故への対応を挙げ、「やりがいのある政治生活ができた」と語った菅直人氏=10月8日、国会内で(由木直子撮影)
―44年間の議員生活で、多くの首相と国会で論戦してきたと思う。歴代の自民党の首相で、政敵だが尊敬できるという人はいるか。 「総理大臣ではなかったが、後藤田(正晴)さんはなかなかの人物だった」 ―長く首相をやっていた人というと、中曽根康弘氏、小泉純一郎氏、安倍晋三氏だが。 「中曽根さんとか小泉さんとか、それぞれの個性というか、味があった。安倍さんとは、何となく雰囲気があまり親しくならなかった」<福島第1原発事故後の2011年5月、野党議員だった安倍氏がメールマガジンで「菅総理が東電に海水注入をやめさせていながら『海水注入は菅総理の英断』とのうそを側近が新聞、テレビにばらまいた」との記事を配信。菅氏は名誉を傷つけられたとして、損害賠償などを求めて提訴したが、最高裁で敗訴が確定した>
―安倍氏とは裁判闘争も繰り広げた。 「(安倍氏の記事は)大うそだ。総理経験者が、私がやったことについて、事実じゃないことを事実のように言われたら、反発するのは当然だ」 ―安倍氏の国葬に出席しなかったのも、そういう思いからか。同じ首相経験者の野田佳彦氏は参列した。 「経緯はよく覚えていない」 ―前回の衆院選では、自民党に移籍した長島昭久氏と東京18区で戦った(菅氏が当選し、長島氏も比例復活)。長島氏はかつて菅さんから選挙の指南を受け、菅グループ(国のかたち研究会)に所属していたこともある。長島氏について思うことは。 「あまり悪口になるようなことは言いたくない。頑張っているんじゃないか」◆議員は男女半々が本来の民主主義社会の姿
国会議員として最後の記者会見を開いた菅直人氏=10月8日、国会内で(由木直子撮影)
―9月の党代表選では当選1回の女性議員、吉田晴美氏を支援した。 「女性の政治家が、戦後、女性が参政権を取って以来、あまり増えていない。残念な傾向だ。私は(女性運動家の)市川房江さんの選挙をお手伝いしたこともあるから、女性の政治家が十分に能力があるのは近くで見ていた。少なくとも半分の議員が女性になるのが、本来の民主主義の男女平等の社会の姿だと、かなり以前から今に至るまで考えている」 ―政界引退後は、どのような活動をしていくのか。 「私自身が長い間、有権者の皆さんに選んでいただいた(東京18区の)議席を(立憲民主党公認の)松下玲子さんにしっかりと引き継ぐのが、当面の最大の仕事だ。彼女の当選に向けて、やれることに全力を挙げたい」 菅直人(かん・なおと) 1946年生まれ。弁理士として働きながら、東京の土地高騰問題などをテーマに市民運動に取り組む。1974年の参院選に際して「市川房枝を勝手に推薦する会」を結成し、既に引退していた女性運動家の市川房枝元参院議員に再登板を要請、市川氏の選挙戦を手伝ったことで政治の世界へ。江田五月氏(後の参院議長)や田英夫氏らが設立した社会民主連合(社民連)に加わり、1980年の衆院選で初当選した。
1994年に新党さきがけに入り、自民・社会・さきがけ3党連立の橋本内閣で厚生相として初入閣。薬害エイズ事件への対応で注目された。1996年に旧・民主党を旗揚げし、鳩山由紀夫氏とともに共同代表に。1998年結党の新・民主党では初代代表に就任した。2003年に小沢一郎氏が率いる自由党と合流(民由合併)し、鳩山・菅・小沢の3氏による「トロイカ」体制で2009年の政権交代を果たす。
鳩山内閣の財務相などを経て、2010年6月~2011年9月に首相。在任中に発生した東日本大震災と東京電力福島1原発事故の対応に当たった。首相退任後は、脱原発や再生可能エネルギー普及に向けた活動をライフワークとしている。
立憲民主党最高顧問。民主党時代から続く党内グループ「国のかたち研究会」会長。長男の菅源太郎氏は東京都武蔵野市議。
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