米中対立が深まる中、積極的に中立を保とうとする東南アジア諸国連合(ASEAN)の動きが関心を集めている。中でもインドネシアは、人口でも国内総生産(GDP)でもASEAN全体の半分弱を占める大国で、G20の一角を占めながらもインドなどとは異なる動きを見せている。本年(2024年)9月、正式にTPP加盟を申請した。

先進国入り目指し、FTAs網の拡大図る

この地政学的緊張の時代になぜ相変わらず自由貿易協定(FTAs)なのか、と思われる方もおられるかもしれない。しかし、国の数で言えば世界のほとんどはグローバルサウスの国々であり、そのうちのかなりの国は、引き続きより自由な貿易・投資を促進しグローバリゼーションの力を利用して経済発展を加速したいと考えている。インドネシアも2045年をめどに先進国入りしたいとの強い願望を抱いている。その基準を提示する経済協力開発機構(OECD)への加盟交渉も、本年(2024年)2月に始まっている。

インドネシアは、ASEAN域外国とのFTAs網の拡大を粛々と進めてきた。表はこれまでのインドネシアのFTAs締結状況を、ASEAN加盟国としての協定を除いた形で示したものである。インドネシアはこの5年ほどの間にオーストラリアおよび韓国と既存のASEAN単位の自由化約束を深掘りする二国間FTAsを結び、また2008年に発効済みの日本との経済連携協定についても24年8月に改正議定書の署名に至った。アジア域外国では、チリとの協定、欧州自由貿易連合(EFTA)との協定が締結された。さらに現在もいくつかのFTAs交渉が進行中であり、特に欧州連合(EU)、カナダとの交渉では妥結のためにクリアすべき問題も絞られつつあると報じられている。

インドネシアの二国間協定その他の締結状況(ASEAN加盟国としての協定を除く)

協定名(通称)
日本 経済連携協定 2008年7月発効
パキスタン 特恵貿易協定 2012年11月批准
チリ 包括的経済連携協定 2019年8月発効
オーストラリア 包括的経済連携協定 2020年7月発効
韓国 包括的経済連携協定 2023年1月発効
パレスチナ 貿易便宜についての相互理解覚書 2018年4月批准
モザンビーク 特恵貿易協定 2021年10月批准
アラブ首長国連邦 包括的経済連携協定 2023年9月発効
スイス 投資の促進及び相互保護議定書に関する協定 2024年1月批准
カナダ 包括的経済連携協定(交渉中)
イスラム開発協力会議(D8) 特恵貿易協定 2011年9月批准
欧州連合(EU) 包括的連携協力協定の枠組み 2012年2月批准
欧州自由貿易連合(EFTA) 包括的経済連携協定 2021年11月発効

出所:日本貿易振興機構(JETRO)ウェブサイト

EUとのFTAとTPPの双方に加わっている近隣国のシンガポールやベトナムの例をみれば、インドネシアがTPPを次の目標とするのは自然な流れである。米中どちらともつながりつつ、同時にその他世界とも経済関係を深めていきたい、そういう意図が見てとれる。アイルランガ経済担当調整相はラテンアメリカなど、これまで経済の結びつきが薄かった地域との関係強化に強い関心を抱いており、東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)(※1) ではTPP加盟の経済効果分析のお手伝いもさせていただいた。

対中関係とのバランス保つ思惑も

過去10年、インドネシアはASEAN諸国の中でも特に中国との結びつきを強めている国である。2023年において中国がインドネシアの輸出入に占める比率はそれぞれ25%、28%まで上昇し、一方、日米欧は合計しても25%、20%にとどまっている。対内直接投資(実行ベース)は年ごとの変動が大きいが、23年については中国が15%、日米欧合計が22%となっている(以上JETROによる)。インドネシアとしては、中国の影響力が強まる中、西側諸国やその他世界との経済関係をさらに強化してバランスを保ちたいとの思惑もある。

インドネシアのTPP加盟は日本としても朗報である。特に期待されるのは投資環境の改善である。このところインドネシアは、ニッケルをはじめとする資源からの下流化(サプライチェーンの川下を含めた高付加価値化のこと。down-streaming)戦略に本腰を入れるようになっており、そこに深く関与している中国や韓国の存在感が増している。一方で、日本が進めてきた自動車など機械産業中心の開発戦略はやや影が薄くなっている。日本は長年にわたってジャカルタ首都圏の産業集積形成や都市アメニティの充実に協力してきた。TPP加盟がかなうのであれば、機械産業の国際的生産ネットワークの重要性に再び光を当てることができるかもしれない。

今後は自由化の国際ルール適合へ作業

ただし、今の時点でインドネシアがすぐに交渉入りできるところまで十分な準備ができているのかどうかは分からない。同国はこれまでもASEANベースのほぼ100%の関税撤廃などは経験してきており、EUやカナダとの交渉でも鍛えられているであろうが、TPPで求められる自由化や国際ルールのレベルは高い。

TPPは、加盟を希望すれば自動的に交渉が始まるわけではなく、TPPが要求する全ての要件を満たすための具体的な準備ができていると全ての既加盟国が認めた段階で初めて交渉開始となる。すでに加盟希望を提出済みの中国などについてまだ交渉が開始されていないのは、この要件を満たしていないとみなされているからである。インドネシアも、TPPで要求されるものを精査し、どのような改革や政策変更が求められるのか詳細に詰める必要がある。そこでは当然、貿易・サービス・投資の自由化、政府調達、国有企業、知財保護、電子商取引、労働などが問題となってこよう。必要な改革のための政府部内のコンセンサスを得ていく作業も必要となってくる。

国際貿易秩序の重要さを示す契機に

インドネシアのTPP加盟は、もし実現すれば、協定の直接的経済効果を超える大きな意味を持ちうる。地政学的緊張が高まる中、世界貿易機関(WTO)を中心とする貿易ルールが軽視される傾向が世界全体で強まっている。TPP加盟は、インドネシアにルールに基づく国際貿易秩序の重要性を再認識してもらい、自由な貿易・投資を推進するグローバルサウスの旗手となってもらう契機となりうる。

貿易ルールの弱体化を象徴する出来事が世界貿易機関(WTO)の上級委員会問題である。WTO紛争解決の第2審に当たる上級委員会は、本来7人の委員から成り、そのうち3人が1つの案件の審理に当たることとなっている。その委員の任命あるいは再任を第1次トランプ政権以降の米国がブロックしているために次々に委員が任期切れとなり、2020年には全て空席となり、審理を行うことができない状況が続いている。

そのため、第1審のパネルで結論が出てもそれに納得しなかった側が止まっている上級委員会に上訴するといういわゆる「空上訴問題」も起きてきており、そのような案件が23年末までに24件積み上がっている。そもそも20年以降、WTOに持ち込まれる紛争案件の数自体が毎年1桁台と少なくなっていることも問題である。

実はインドネシアも、通商ルール上問題があるとみなされている政策を数多く抱えている。日本の経済産業省が毎年まとめている『不公正貿易報告書』では、同国における多種多様な輸入制限措置、鉱物資源に関する輸出規制およびローカルコンテント要求、通信機器やテレビなどについてのローカルコンテント要求など、多くの疑わしいケースが報告されている。その中にはWTOの紛争解決で空上訴となっているものも含まれている。

しかし、インドネシアの政策担当者は貿易ルールに対する意識を完全になくしてしまっているわけではない。識者と話をすれば、問題ははっきりと認識している。TPP加盟交渉を行おうとすれば、それらの問題も当然議論の対象となってくる。そういったプロセスを経て、インドネシアがよりクリーンな通商政策体系を持つようになり、ルールに基づく国際貿易秩序を積極的に支えるようになっていってほしい。

グローバルサウスとの連携

グローバルサウスと総称される新興国・発展途上国の中には、既存の国際ルールは新旧植民地主義に基づき先進国側から一方的に押しつけられたものであり、それに対して反発することを最大公約数として団結しようとする動きもある。そういった主張には理解できる部分もある。しかし、こと貿易ルールに関しては、今は全てを抜本的に作り直すタイミングではなく、まずは秩序を保全すべきである。米国以外の全ての国、特に弱小国にとって、ルールは強い味方である。

地政学的緊張、特に米中対立が深まる中、安全保障名目で規制される経済が生まれてきてしまうことは避けられない。しかしその外側の「その他経済」をできる限り広く確保し、自由闊達(かったつ)な経済を守っていかねばならない。そのためには、日本をはじめとするミドルパワーは自由な貿易・投資を志向するグローバスサウスの国々とも連携して、ルールに基づく国際貿易秩序を保全していく必要がある。インドネシアおよびASEAN諸国は、そのための重要なパートナーとなりうる。

(※1) ^ 編集部注:東アジアの経済統合に関わる研究、政策提言を行う国際機関。本部ジャカルタ。筆者は同センターのシニアリサーチフェローを務める。

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