イタイイタイ病、初の公害病認定
1968(昭和43)年 厚生省(現厚生労働省)が富山県神通川流域に発生したイタイイタイ病を三井金属鉱業の工場廃水によるとする見解を発表。国が認定した初の公害病となった。この2カ月前、同病患者ら28人が三井金属を相手取って提訴。1、2審とも、廃液中のカドミウムと同病に因果関係があると断定。同社が上告を断念し、患者側との和解に応じた。
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その他の出来事
文部省が『尋常小学唱歌』を刊行
1911(明治44)年 文部省が『尋常小学唱歌 第1学年用』を刊行。東京音楽学校(現東京芸術大音楽学部)に編さんを依頼、既存の曲や外国の曲は収録せず、編さん委員会の合議で作詞、作曲した。「日の丸の旗 (現「ひのまる」)」「鳩」「桃太郎」「朝顔」など20曲を収録。14(大正3)年まで2~6学年用も順次発行した。
八田与一が死去 : 台湾のやせ地を緑土に
1942(昭和17)年 台湾で「不毛の大地」と呼ばれた嘉南平原で、烏山頭(うさんとう)ダム建設の指揮を執った八田与一が56歳で死没。日本からフィリピンに赴任するため乗船した船が米潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。烏山頭ダムは1930年完成。当時としては東洋一の規模を誇り、降雨が少ない嘉南平原を台湾屈指の穀倉地帯に変えた。
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米軍立川基地拡張に反対:砂川闘争始まる
1955(昭和30)年 東京都砂川町(現立川市)で米空軍立川基地の拡張反対総決起集会が行われ、砂川闘争が始まった。57年には、基地拡張のための測量を阻止しようと基地内に入ったデモ隊のうち7人が起訴されるなど、反対運動は次第に激化し、警官隊との衝突を繰り返した。米軍は横田基地の滑走路を延伸し、60年から順次、立川での業務を横田に移転、68年12月20日に立川基地の滑走路延長計画中止を発表した。77年11月30日に全ての敷地が日本側に全面返還された。返還後の跡地は再開発され、商業施設、公立学校、広域防災基地、国営昭和記念公園などの施設が造られた。
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北朝鮮の5人が日本領事館に駆け込み 中国公安が亡命阻む
2002(平成14)年 北朝鮮亡命者5人が中国・瀋陽の日本総領事館へ駆け込んだが、中国公安当局が領事館敷地内に侵入して5人を確保して連行。中国側は「日本側の同意を得ていた」としたが、日本側は同意の事実はなかったと反論、在外公館への不可侵権を定めたウィーン条約違反として謝罪と関係者の引き渡しを求めた。結局、双方の主張は平行線のまま、5人は第三国を経由して韓国に亡命したが、そもそも、亡命者の受け入れに極めて消極的な日本の姿勢が根底にあるとして、各国から批判が浴びせられた。
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新型コロナ感染症が「5類」移行
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