神話や中国にルーツを持つ行事

海に囲まれ、川や湖沼も多い日本には、船の速さを競い合う「競漕(きょうそう)」の祭りが各地にある。古いものでは出雲の国譲り神話に由来する美保神社(島根県松江市)の「諸手船(もろたぶね)神事」が有名だ。多人数で櫂(かい)を操る諸手船に乗って、天上からの使者が美保関の事代主(ことしろぬし、別名・えびす)に会いにきた場面を再現、大漁や五穀豊穣(ほうじょう)の感謝をささげる。


12月3日に美保関で開催される「諸手船神事」

大勢で船を漕(こ)ぐ神事は、各地で次第に白熱したレースへと発展した。他には沖縄のハーリーなど、中国から東アジアに広がった「爬竜船(はりゅうせん)競漕」をルーツとする行事が根付いている。

櫂船は1人でも技量が劣っていたり、怠けたりすると速く進まない。ベテランが若者に技術を教えながら練習を繰り返し、一心同体になることが必要で、氏子の連帯感を強めることにもつながっているのだ。神事であり、地域の誇りをかけて戦う船のレースの中から、見応えたっぷりの3つを紹介する。


中国・汨羅(べきら)江の支流を走る爬竜船。船首に竜頭の彫刻を飾る

和歌山「熊野速玉大祭 御船祭」

(新宮市、10月16日)


古式の早船9隻によるレース

紀伊半島を流れる熊野川は、熊野速玉(はやたま)大社のある河口部から中流の熊野本宮大社辺りまでが「川の参詣道」としてユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産になっている。熊野速玉大祭2日目の「御船(みふね)祭」では、その聖なる川で競漕を繰り広げる。


早船に続いて朱塗りの神幸船が諸手船にひかれてゆっくり進む

スタート地点は速玉大社の北東、新熊野大橋近くの権現河原。神輿(みこし)を神幸船に乗せると、9地区の代表が操る早船が一斉に漕ぎだす。1.6キロ上流の御船島を3周してから、南対岸にある乙基(おもと)河原にゴール。

16~17分のレース中、 1人が漕ぐ回数は600回にも及び、力強く水をかく「ギッ」という音が両岸に響き渡る。インコースの奪い合いで船体が激しくぶつかり合い、迫力満点だ。


川の流れに逆らって11人で船を進める


島の周回コースでデッドヒート

早船は折り返して再び競漕を始め、遅れて神幸船が乙基河原に到着する頃には、辺りは薄暗くなっている。真新しい杉の葉で作った仮宮に神霊を迎えると、かがり火の中で「神鎮めの舞」などの儀式が執り行われ、激戦から一転、神秘的な雰囲気が広がっていく。


古代に神々を迎えた宮の再現といわれる

広島「ひがしの住吉祭」

(大崎上島町、8月13日)


一切の無駄を省いた船体は、鋭い日本刀をイメージさせる

瀬戸内海の真ん中に浮かぶ大崎上島は、室町時代には備中守・小早川家が率いた水軍(海賊)「備中船手衆」の島で、「櫂伝馬(かいでんま)競漕」が伝統文化として継承されている。櫂伝馬は元々、本船と陸上の連絡・運搬に使う小船だったが、機動力が高いことから中世に瀬戸内海を掌握した水軍が用いた。

島の北東部・東野地区にあった海の守り神・住吉神社(現在は古社八幡神社に合祀)の祭礼では、1827(文政10)年から神輿を乗せた船を櫂伝馬が先導するようになり、江戸末期から速さを競い始める。海賊さながらの荒々しい争いを繰り広げていたが、昭和の半ばからはスポーツ色を強めていった。


太鼓に合わせて一糸乱れぬ櫂さばきを見せる

現在は4地区の対抗戦で、ライバルを出し抜くために船の改良を繰り返している。船大工と研究を重ねた設計図は、各地区の極秘資料だ。漕ぎ方にもコツがあり、前傾しながら櫂を水面に対して垂直に入れ、一気に上半身をのけ反りながらかきあげる。体力と高度な技術を必要とするため、合同練習は長期間にわたるという。


仲間を鼓舞する男児2人を含め、乗員は18人

祭りは4隻がコースの異なる4回戦で競い、総合得点の高い地区が優勝となる。それぞれ水夫(かこ)14人、音でペースを指示する太鼓打ち、大きな櫂で針路を取る船頭に加え、旗や櫂を振って士気を高める小学生が船首と船尾に乗り込む。


船頭による潮流の読み方が勝敗を分ける

折り返し点ではインコースを奪い合うが、船体がぶつかれば互いに減速してしまうので、他の船に出し抜かれてしまう。装備や体力、技術、精神力に加え、戦略も重要になるのだ。

見物客は全員の動きが一つになることで、船が速く進むことに魅了される。小学5年生から出場できる「子ども櫂伝馬」から次世代の水夫が育つ。


皆で健闘をたたえ合う頃、夜空に数千発の花火が打ち上がる

沖縄「糸満ハーレー」

(糸満市、旧暦5月4日)


現代では主に伝統漁船を使う

沖縄の伝統漁船による競漕「ハーリー(爬竜)」は、毎年主に旧暦の5月4日(2024年は6月9日)に離島も含めて20数大会が開かれる初夏の風物詩。本島最南端の糸満市では古い方言で「ハーレー」と呼び、600年の歴史を持つ行事として知られている。


糸満ハーレーは3集落の対抗戦

起源には諸説あるが、琉球(りゅうきゅう)と呼ばれた1400年ごろ、糸満を拠点とした南山国の王が中国から持ち込んだというのが有名だ。留学先の南京で見物した爬竜船に感銘を受け、帰国後に造らせたという。

ハーレーは琉球王国時代(1429-1879)には国家行事となったが、沖縄県になった1879(明治12)年からは政府の宗教政策で禁止され、断絶の危機に。それでも島人は車輪を取り付けた船を走らせ、沖縄国際海洋博覧会(1975年)をきっかけに再興するまでの百年近く守り続けた。


決戦の日が近づくと、カンカンカンとハーレー鉦(がね)を打ち鳴らす音が街に響く

糸満ハーレーは西村、中村、新島の3地区から計60チームが出場し、総合得点を争う。祭り当日の早朝には、3地区の代表者が丘の拝所に集まる。「ノロ」と呼ばれる神女と共に海の神に感謝し、豊かな世と大漁を祈る。


開戦の旗を振るのは、この役目を南山国王から授かった家系

儀式の後、丘に揚がった旗を合図に糸満漁港で「御願(ウガン)バーレー」がスタート。漁協青年部が13人乗りの伝統的な木造漁船で競い合い、糸満ハーレーの幕開けを飾る。レース後は氏神様のお堂で、ハーレー唄や祝いの踊り「カチャーシー」を奉納する。


櫂を振りながらにぎやかに歌い踊る

漁港では引き続き、青年の部、中学生の部、職場グループの対抗戦などを展開。名物「クンヌカセー」はレース中にわざと転覆させ、舟底を見せてから元に戻し、水をかき出して再び漕ぎ出すという珍しい競技だ。


漁船事故に備えた訓練でもある転覆競漕


幕あいには、漁船の中で少女たちが島唄に合わせて踊る

最終競技「アガイスーブ」は精鋭がそろう最速のレースで、地区の名誉をかけたハイライト。港内を3周する計2150メートルのロングコースだが、3チームの技量は伯仲し、抜きつ抜かれつの大熱戦を展開。優勝した地区は総勢で踊り、笑顔で幕を閉じる。


最後はカチャーシーで祝賀ムードに

※祭りの日程は例年の予定日を表記した

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。