サッカーW杯:日本が初のトーナメント進出

2002(平成14)年 国際サッカー連盟(FIFA)ワールドカップ日韓大会で日本がチュニジアを2-0で下し、グループHを2勝1分の1位で通過。FIFA W杯で日本代表が初めて決勝トーナメントに進んだ。後半出場の森島寛晃選手が、競り合いでこぼれたボールを中央から蹴り込んで、先制点をゲット。2点目は市川大祐選手しがDFを巧みにかわして右サイドからクロスし、ゴール前に飛び込んだ中田英寿選手が豪快なヘッドでボールを突き刺した。

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その他の出来事

『遠野物語』の初版本刊行

1910(明治43)年 岩手県遠野地方の民話、伝承を詩的な散文でつづった柳田国男(1875~1962)の初版『遠野物語』が刊行。350部印刷のうち200部を自身が買い取り、島崎藤村や田山花袋、泉鏡花らに寄贈した。残りは1部50銭で販売され、購読者には芥川龍之介、南方熊楠、ニコライ・ネフスキー(ロシアの東洋学者)らが名を連ねる。地元の民俗学者佐々木喜善(作品では「佐々木鏡石」)が語った話や、柳田が現地を訪れて採取した伝承を119話収めている。

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可動橋の勝鬨橋が竣工

1940(昭和15)年 隅田川にかかる可動・勝鬨(かちどき)橋が竣工。橋の中央部が「ハ」の字型に最大70度の角度で跳ね上がり、3000トン級の船舶が航行できる。この年に「皇紀2600年」を記念して開催予定だった日本万国博覧会会場月島地区へのアクセス道として架橋。日本の技術力を誇示するため跳開機構を導入し「東洋一の可動橋」と評判になった。1日5回、1回につき20分程度跳開した。70年11月29日を最後に開閉が停止された。国の重要文化財、日本機械学会の「機械遺産」。

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