(前編から続く)
福江島の漁港を見下ろす「白い教会」
中通島(上五島)の玄関口・有川港へは、長崎港から直行の船が出ている。だが、私はまず福江島(下五島)を目指した。福江港からバスで20分ほどの入り江近くに、「白い教会」と呼ばれる鉄川与助作の水ノ浦教会がある。福江港からも中通島への船があり、しかも途中、江上天主堂のある奈留港に立ち寄る。そこで、彼が建てた教会を島伝いに楽しみながら、有川港に向かうことにした。
水ノ浦教会は小さな漁港を見下ろす高台に立っていた(バナー写真)。
野崎島の旧野首教会をはじめ、五島列島のカトリック教会の多くが、海岸まで迫った山の斜面にある。
それはなぜなのか。
1797年に始まった大村藩による五島移住政策に乗じ、長崎・外海(そとめ)地域からたくさんの潜伏キリシタンが、安住の地を求めて五島に渡った。ところが、肥沃な土地はすでに仏教徒である島民たちの領地となっており、新参者は船でしかたどり着けないような辺地や不毛の地を開墾するほかなかったのだ。
水ノ浦には1880年に最初の教会が建築されたが、老朽化に伴い1938年、鉄川与助設計・施工の現教会に改築された。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の教会で、近くには弾圧時代の牢屋跡があり、五島出身ただ1人の聖人である「聖ヨハネ五島」の聖像が立っている。
木造教会としては国内最大規模の水ノ浦教会。近くには、同じく与助が設計・施工を手掛けた楠原教会もある 写真=天野久樹
木造教会の完成形「江上天主堂」
世界文化遺産構成資産「奈留島の江上集落」は、奈留港から西へ7キロ、海に近い谷間の平地にある。車で20分ほどだが、今回の旅で訪れた教会堂の中では唯一、公共交通の便がなかった。
港の待合室で1時間近く待ってタクシーに乗った。運転手によると、以前はワゴン型の路線バスが島内3系統を巡り、江上集落前まで行くことができたが、昨年秋に路線バスが全廃されたという。
7~9世紀の遣唐使船の時代から「風待ち港」として知られ、漁業の島として最盛期の1960年代初頭には9000人を超えていた人口は、今や2000人弱。過疎化が加速している。
「あの家屋は、元大リーガー、野茂英雄さんのお父さんの生家です。野茂さんもおばあちゃんが元気な頃は、よく島を訪れていました」
などと、快活な運転手から島内のことを教わっていると、廃校となった小学校のグランド奥の木立の中から天主堂が姿をのぞかせた。
アイボリーの外壁にパステルブルーの窓枠が、青空と木々の緑によく映える。白亜の水ノ浦教会とは対照的に、絵本の童話に出てくるようなメルヘンチックな教会だ。
木造教会の完成形ともいわれる江上天主堂(国の重要文化財)。海に近く、水が湧き出る地勢を考慮して高床式になっている 写真=天野久樹
現在の教会が建てられたのは1918年。40~50戸ほどの信徒がキビナゴの地引網などで得た収入を出し合い、林を伐り払って敷地を造成したという。手作り感は窓にも漂う。教会というと色付きのステンドグラスを想像するが、この教会は透明のガラスに信徒たち手描きの花模様があしらわれている。
「信徒発見」から「信教の自由」へ
奈留港と有川港を直接結ぶ航路はないが、奈良尾港までの船があり、そこから路線バスで有川港まで行ける。そこで1時間半の移動時間を利用して、禁教解除前後の日本の教会史について復習した。
1858年、江戸幕府は米・英・フランス・ロシア・オランダと修好通商条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に終止符を打つ。開港都市となった長崎では外国人居留地が造られ、禁教令の廃止が近いとみたローマ教皇庁は、日本での再布教をパリ外国宣教会に託し、外国人用の教会として大浦天主堂が建てられた。
1865年3月17日、その大浦天主堂を舞台に、宗教史上の奇跡とも言われる「信徒発見」が起こる。
これは、長崎市・浦上地区の隠れキリシタン10数名の一団が大浦天主堂を訪れ、ベルナール・プチジャン神父に信仰を告白した出来事を指す。
ローマ教皇庁にとっては驚愕の出来事だった。なぜなら、もはや日本に信者は残っていないと思い込んでいたからだ。
(左)1864年に完成した大浦天主堂(国宝)。現存するキリスト教建築物としては日本最古(右)信徒発見の場面を再現したレリーフ。1965年、信徒発見100周年を記念して、大浦天主堂の階段近くの庭に建立された 写真=天野久樹
1867年、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は政権返上を明治天皇に奏上(大政奉還)し、翌年、明治政府が成立した。
天皇制国家を築くため神道を重視した新政府は、引き続きキリスト教を禁教とし、信徒たちを迫害した。だが、先進技術・制度の視察のため欧米を歴訪した岩倉具視使節団が、各国元首から「信教の自由」を強く迫られると、73年、禁教の高札を撤去。259年ぶりに禁教令は効力を失った。
晴れて潜伏生活から解放された各地の信徒たちは教会堂の建設を熱望。そんな彼らの願いをかなえたのが、パリ外国宣教会から派遣されたフランス人神父であり、彼らの指導を受けて施工を受け持った日本人大工たちだった。
“教師”は2人のフランス人神父
有川港ターミナル内の「鯨賓館(げいひんかん)ミュージアム」には、かつて上五島の基幹産業だった捕鯨を紹介するコーナーとともに、鉄川与助の偉業を映像やパネルなどでたどるエリアが設けられている。
与助は1877年に旧魚目村(現・新上五島町)の大工棟梁の長男に生まれ、15歳で尋常小学校高等科を卒業すると大工の修業を始めた。
その後の建築家人生を決定付けたのは、2人のフランス人神父だった。
22歳の時、実家近くの曽根教会の建設工事に参加した与助は、初めて西洋建築と出会う。リブ・ヴォールト天井(アーチ状の天井。こうもりが羽を広げた形に似ていることから「こうもり天井」とも呼ばれる)に魅せられた与助は、工事を指導していたアルベール・シャルル・アルセーヌ・ペルー神父から、幾何学をはじめ教会堂設計のイロハを教わる。
そして27歳で家業を継いで「鉄川組」を組織すると、冷水(ひやみず)教会(中通島)を皮切りに自らが設計した教会堂を、長崎県内を中心に次々と建てていく。
(左)リブ・ヴォールトの模型を展示した鉄川与助コーナー(右)与助が手掛けた教会堂の構造の進化を映像で学べる 写真=天野久樹
(左)与助愛用の大工道具。教会堂建設時、木材を丸く削るために使用した(右)信者らが手描きした江上天主堂の窓のガラス絵 写真=天野久樹
そして2人目の“教師”となったのが、明治が終わる頃に知り合ったマルコ・マリー・ド・ロ神父である。
長崎・外海地域で、貧しい村民たちのために私財を投じて授産施設を設立したド・ロ神父。一方で彼は、フランスで建築学を修め、日本でも大野教会や出津教会を設計した“建築家”でもあった。中でも、石灰と砂に赤土を水に溶かして接着剤とし、自然石を積み上げる独特の手法は「ド・ロ壁」と呼ばれ、多くの日本人の左官たちにも影響を与えた。
与助はド・ロ神父から、教会を造る時には自らも山に入って木を選んだり、信徒らと共に材木やレンガを運んだりする姿勢を学んだといわれる。
(左)与助が師と仰いだド・ロ神父 写真提供=鉄川進一級建築士事務所(右)ド・ロ神父が設計した大野教会(長崎市)。壁面は地元で採れた玄武岩を積み上げたド・ロ壁 写真=天野久樹
有川港からバスで30分ほどの世界文化遺産「頭ヶ島の集落」に、与助唯一の石造教会となる頭ヶ島天主堂がある。
禁教期、長崎外海地域から五島列島各地へ渡った潜伏キリシタンの一部は、当時病人の療養地として島民が近づかなかった頭ヶ島を移住の適地に選んだ。天主堂は地元の砂岩で造られており、石積みには信徒たちも関わったという。
1919年に竣工した頭ヶ島天主堂(国の重要文化財) 写真=天野久樹
島北部の入り江に面した頭ヶ島集落。天主堂は集落の奥、緩やかに傾斜する山裾に立つ。石は正面に浮かぶ小島から切り出した 写真=天野久樹
独学で鉄筋コンクリート構造を習得
尋常小学校高等科を出てすぐに大工となった与助は、建築に関して高度な教育は受けておらず、ヨーロッパの教会を生で見たこともない。しかも与助自身は仏教徒である。そんな彼が、生涯に50を超える教会の建物に関わり、そのうち30ほどを設計・施工した。2人のフランス人神父との出会いが、彼を大工棟梁から「建築家」に飛躍させるきっかけとなったのは確かだが、原動力はそれだけではなかったはずだ。
晩年の与助と一緒に暮らしたことのある孫が、1級建築士として長崎市に暮らしていることを知った私は、中通島から長崎に戻ると彼、鉄川進さんを訪ねて話を伺った。
「同じ建築家の目から見た、おじいさんの素晴らしさとは何でしょうか」と尋ねると、進さんは「最も印象的なのは、独学で鉄筋コンクリート構造を習得したことです」と言って、祖父が残した蔵書の中から、1916年刊行の『鐵筋混凝土工學』を持ってきてくれた。ページをめくると黒や赤のアンダーラインが各所に引かれ、書き込みがある。
日本で鉄筋コンクリート構造が一般に普及する契機は、1923年に起きた関東大震災だった。この大地震でレンガ構造の建物が大きな被害を受けた。
だが与助は、すでに関東大震災の前年に、鉄筋コンクリート3階建ての長崎神学校を建てていたのだ。
彼は1908年に日本建築学会に入会していたが、その目的の一つが鉄筋コンクリート技術の習得にあったとされる。東京で講習会があると夜汽車で上京し、貪欲に新知識を吸収した。
数ある与助の傑作の中から、進さんは一番好きな教会として長崎県平戸市の紐差(ひもさし)教会を挙げた。与助が苦労の末に建てた鉄筋コンクリート造の教会堂だ。
「建築家には、技術者と造形者(デザイナー)という2つの側面があります。祖父は造形者としてのセンスもありましたが、何よりも技術者として、日本の建築教育を担う機関が(現在の)東京大と早稲田大しかなかった時代に、あえて五島の大工棟梁が独学で鉄筋コンクリート構造を習得しようとしたのです」
(左)与助が熟読した専門書『鐵筋混凝土工學』 (右)壮年期の鉄川与助。外出時は必ず黒の三つ揃えを着て、チョッキのポケットから懐中時計の鎖を垂らしていた 写真提供=鉄川進一級建築事務所
(左)紐差教会は旧浦上天主堂が原爆で倒壊し再建されるまでは日本一の規模を誇った 写真提供=九州観光機構(右)ド・ロ神父の設計、与助の施工で建てられた、大浦天主堂に隣接する旧長崎大司教館。原爆投下にも“無傷”だったことが与助の自慢だったという 写真=天野久樹
旧居宅跡に残されたレンガ塀
1949年、与助は70歳で家業を長男・与八郎に譲ると、建築家としての第一線から退いた。晩年は横浜で過ごし、76年に97歳で人生を全うした。
中通島の旧居宅は、有川港からバスを乗り継いで40分ほどの丸尾漁港近くにある。レンガ塀は当時のままだが、無人となり朽ち果てた家は取り壊され、現在は町が管理する公園となっている。敷地内には、与助の写真や経歴、設計・施工した教会の写真が入ったパネルが数枚立っているだけだ。
「日本の教会建築の父」としては、寂しい扱いではないか――と、一瞬思ったところで思い直した。
そういえば、野崎島(小値賀町)の旧野首教会を訪れた際、「信徒たちの集団移住で廃村となり、使われなくなった教会が(町が文化財として長崎大司教区から譲り受ける前に)取り壊されることはなかったのですね」との私の問いに、ガイドはこう語っていた。
「なんでもカトリックの教えでは、役目を終えた教会は、そのまま土に還るのです」
なるほど。だとするならば、教会建築に生涯を捧げた与助にとって、こうした姿が一番ふさわしいのかもしれない。
早春の柔らかな西日を受けて、レンガ塀がオレンジ色に輝いていた。(つづく)
丸尾漁港近くにある鉄川与助の居宅跡。海岸が埋め立てられる前は、家のすぐ前は砂浜で、船で建築現場を巡ったという 写真=天野久樹
(左)公園内に残るレンガ造りの流し台と、みそやしょうゆを作る際に使ったかめ(右)鉄川組の集合写真(1939年頃)のパネル。神事の棚を挟んで前列中央右が与助 写真=天野久樹
【参考文献】
- 『天主堂建築のパイオニア・鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(喜田信代・著、日貿出版社)
- 『教会建築家・鉄川与助の生涯 同居の孫が見た素顔』(鉄川ひろ子、海鳥社)
- 『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』(LIXIL出版)
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