「三淵邸・甘柑荘」を昭和初期に神奈川県小田原市板橋に建てたのは、戦後に発足した最高裁判所の初代長官に就任した三淵忠彦である。NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデルの義父にあたる。長官在任中に書いたものをまとめた随筆集「世間と人間」の言葉を手がかりに、忠彦の人物像などを紹介する。【本橋由紀】
「民主的憲法の下にあっては、裁判所は、真実に国民の裁判所になりきらなければならぬ」(挨拶(あいさつ))
「世間と人間」は随筆以外に、挨拶や寄稿、鼎談(ていだん)の記録も掲載され、1950(昭和25)年に朝日新聞社から出され、昨年5月に出版社・鉄筆が復刻した。
就任式の共同記者会見での挨拶(前出)は、裁判所や裁判官に対する期待や覚悟であり、大役を引き受けた意気込みにあふれていた。
忠彦が長官に就任したのは47年8月4日、67歳の時だった。忠彦は07年に東京地裁で判事となり、大審院(最高位の司法裁判所)の判事などを務めたが、25年に45歳で退官していた。その後、三井信託の法律顧問になり、慶応大などで民法を教えた。60歳で定年を迎え、隠居生活を送っていたが、突如、トップとして裁判の現場に戻った。
敗戦後、司法省の傘下にあった裁判所は独立し、それまでとは違う存在になった。忠彦にとって、「国民の裁判所」はキーワードだった。
挨拶では日本国憲法で初めて規定された違憲立法審査権にも触れ、「憲法の番人たる役目を尽くさねばなりませぬ」と語った。裁判官については「法律の一隅にうずくまっていてはならず、眼界を広くし、視野を遠くし、政治のあり方、社会の動き、世態の変遷、人心の向き様に、深甚の注意を払って、これに応ずるだけの識見、力量を養わなければなりませぬ」と注文した。それが国民の信用と信頼を得ることにつながると。
国民に対しても、「裁判のありよう、裁判官の適否に常に払ってもらいたい」と求めた。さまざまな立場で培った経験が凝縮されたような内容だった。
2020年8月、「三淵邸・甘柑荘」の物置にあった古い革のカバンから、忠彦宛の書簡や書類、新聞の切り抜きなどが大量に見つかった。その中には1947年8月1日の毎日新聞朝刊1面「最高裁判所長官決る 三淵忠彦氏を推薦」の切り抜きが残っていた。
「至急官報」の朱印のある47年の電報もあった。
「サイコウサイバ ンシヨサイバ ンカンコウホヲジ ユダ クサレルカ、モシジ タイサレルナラバ シキユウオシラセコウ」(7月24日)
「チカクユクゼ ヒヒキウケコフ」シホウダ イジ ン(7月28日)
「キカハサイコウサイバ ンシヨチヨウカンニニンメイセラレルコトニケツテイシタ」(8月2日)
長官就任が急な展開だったことを物語るものだった。(敬称略)=随時掲載
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