(前編から続く)

「ミゲルの墓」の所有者を探し当てる

大石は、長崎県多良見町(現・諫早市)山川内(旧・伊木力村)の山中にあり、地元住民らから「玄蕃(げんば)さんの墓石」と呼ばれる墓石を、代々伝えられてきた千々石玄蕃の墓ではなく、千々石ミゲル夫妻のものと確信した。

その根拠は、まず墓石に刻まれた銘文である。正面には「自性院妙信」「本住院常安」の2つの戒名が刻まれている。前者は女性、後者は男性、しかも、「寛永九年十二月」「十二日」「十四日」と亡くなった年月日も刻まれており、ある夫妻のための墓石と考えられる。


伊木力墓石の表面に刻まれた2つの戒名と没年月日(拓本:大石一久) 写真提供=浅田昌彦

一方、裏面に刻まれた「千々石玄蕃」の主は、大村藩の史料によれば、千々石ミゲルから改名して同藩に仕官した千々石清左衛門の四男・玄蕃である。仮に玄蕃の没年を銘文にある寛永九年(1633年)とした場合、亡くなったのは20代前半~半ばと推定される。その年齢で夫婦が相次いで亡くなるとは考えにくい。ゆえに玄蕃は墓石の建塔者であり、“ある夫妻”のために建てたと考えるのが自然だ。

ではその夫妻とは誰なのか。当時玄蕃と関わりのあった人間を徹底的に洗い出したところ、消去法で残ったのは彼の両親、すなわち千々石ミゲル夫妻だった。

ただ、これはあくまで文献史料から導き出した結論に過ぎない。埋葬されている者を確定し、謎とされるミゲルの後半生を解き明かす手がかりがあるとすれば、墓石の下ではないか。こう大石は考えた。

発掘調査をするには土地所有者の同意が不可欠だ。

多良見町の町長が登記簿を探り出したところ、墓所の所有者は「浅田勤三郎」となっていた。

墓石に刻まれた「妙法」の文字、そして戒名に院号が使われていることから、大石は日蓮宗の寺院と関係があるのではないかと目星を付け、長崎市琴海(きんかい)戸根町にある自證寺(じしょうじ)に出向いた。

自證寺は1658年、大村藩城代家老の浅田家が建立した寺である。浅田家代々の位牌の中に、伊木力墓石に刻まれた夫妻の戒名を見つけた。続いて大村市内にある浅田家の墓所を訪ねると、数ある墓石の中に「浅田勤三郎」の名があった。

同寺に残る浅田家の家系図によると、千々石玄蕃の長女が浅田家に嫁いでいた。

これで伊木力墓石に大村藩城代家老の浅田家が深く関与し、明治以降もその関係が続いていたことが証明された。

浅田勤三郎は1887年(明治20)に東京に居を移し、同年亡くなっていた。幸運だったのは、大石の知人である大村家の子孫が、勤三郎の孫と交流があり、電話番号が記されたはがきを保管していたことだ。はがきに記された電話番号にかけると、浅田家の第17代が川崎市に住んでいることが分かった。墓石所有者である浅田家の嫡流にたどり着いたのだ。

「名もなき者」の正体を解明したい

大石から自分が千々石ミゲルの末裔(まつえい)であることを伝えられた浅田昌彦は驚いた。「天正遣欧少年使節」と聞いても、そういえば昔学校の授業でやったな、という程度で、ミゲルの名は知らなかった。

伊木力を訪問した浅田は、大石から千々石ミゲルはどういう人物であるか、詳しく説明を受けた。

不可思議だったのは、自證寺にある浅田家の位牌の中にも、戒名だけで本名はなく、「名はない」と記されていたことだ。なぜ本名を伏せざるを得なかったのかは分からない。ただ、「名もなき者」が誰かを明確にすることが、浅田家の17代当主である自分の使命ではないか、と思った。


大村藩城代家老・浅田家の第17代となる浅田昌彦さん 写真=天野久樹

一方、地元でも発掘調査への期待が高まっていた。伊木力墓石の発見後、ミゲル生誕の地・雲仙市千々石町に「千々石ミゲル研究会」が発足。地元の多良見町でも「たらみ歴史愛好会」がミゲルに関する研究を開始した。

ならば私費を投じて発掘調査を

大石と浅田は、行政が腰を上げるのを待ち続けた。「ミゲルの墓発見」の記者会見では、ぜひ発掘調査をしたいと語っていた多良見町だが、墓所発見の翌年の2005年に多良見町は諫早市と合併し、墓所調査の件は仕切り直しとなっていた。

浅田は大石に相談し、あくまで墓所整備という形の私的調査ということで、2009年、市の指導の下、発掘の準備に取り掛かる。

まずは、土地所有者を曾祖父の勤三郎から昌彦に変更しなければならない。勤三郎は120年前に亡くなっているだけに、未知の相続人が十数人おり、順番にお願いをして回り、1年近くを要した。続いて工事の費用と期間はどのくらいかかるのか、人手の確保は?  当時、浅田は50代初め、働き盛りのサラリーマン。有休をフルに使って川崎と長崎を往復した。

特に重要だったのは発掘調査の時期だ。墓石の周囲は特産伊木力みかんの栽培地。米作も行われており、作業できるのは農閑期の8~9月に限られる。ただうれしいことに、地元の人たちがボランティアで作業を手伝ってくれることになった。

別府大学教授で文化財研究所所長の田中祐介氏を調査担当に招き、大石が統括者となって墓石発見から10年後の2014年9月、ようやく発掘調査が始まった。


みかん畑に囲まれた高台の急斜面に立つ伊木力墓石(左下)。その前にはJRの線路が走り、遠くに大村湾が見える 写真提供=浅田昌彦

1回で終わると思ったが……

「当初は1回で終わると思っていた。とにかく墓石の前を掘れば骨が出てくるだろう。もしロザリオとか出てくれば、カトリック信者だった証明になる」

と浅田は振り返る。

ところが、いざ掘ってみたら、いきなり分厚い石積みにぶつかった。手作業では太刀打ちできない。1週間で調査を諦めた。


墓石の前を掘ると、すぐに分厚い石積みが現れた 写真提供=浅田昌彦

ただ収穫もあった。ひなびた山中の草生(む)した所にある自然石のお墓が、実は石組みの大きな基壇に据えられていた墓石であることが分かったのだ。

「これは豪族クラスの墓だぞ」と大石は思った。

試しに地中をレーダー探査すると坐棺と思われる影が現れた。これなら基壇を壊さなくても大丈夫だろう。


第1次調査後の地中レーダー探査で、墓石の前方に墓壙と思われる3つの反応が出た(図③④⑤) 画像提供=浅田昌彦

2016年9月、第2次調査が行われた。ところが今度は、玉砂利をよけると石層が現れた。50センチ以上掘っても石層は続く。これ以上掘ると墓石自体が倒れる危険があったため、またも調査を断念した。

地元住民たちも立ち上がる

これまでボランティアで作業を手伝ってくれた人たちを前に、浅田は頭を下げた。

「申し訳ないが、これ以上私財を投じて調査を続けるのは、サラリーマンの身では無理です。残念だが発掘調査はこれで終わりにします」

すると、彼らは口々に浅田に声を掛けた。

「第1次、第2次と調査を手伝ってきて、こんなにすごい人のお墓が地元にあったのか、とうれしくなった。俺たちもがんばるから……」

1カ月後、多良見町出身で元長崎県副知事の立石暁を中心に、地元の有志らが「千々石ミゲル墓所発掘調査実行委員会」を結成し、資金集めに乗り出した。


地元の人たちは毎日十数人が交替で作業を手伝ってくれた(左)炊き出し準備に精を出す女性陣(右)発掘作業の合間の昼食光景 写真提供=浅田昌彦

妻の信心具、そしてミゲルの遺体を発見!

翌2017年9月に行われた第3次調査は、過去2回とは比較にならないくらい大規模なものとなった。墓石と基壇をクレーンで持ち上げると石の蓋が現れた。石を外すと中は空洞で、ビーズやガラス片といった副葬品が出てきた。

「やったぞ!」と声が上がった。

大腿骨などの骨と歯の一部も見つかり、長崎大学で分析したところ女性のものと分かった。ミゲルの妻だ。

でも、もう一体の遺体が見つからない。

戒名が2つ刻まれているから、遺体も2体が出てこないとおかしい。絶対にミゲルがいるはずなのに……。

残念ながらここでタイムリミットとなった。


ドローンから撮影した第3次調査の発掘現場 写真提供=浅田昌彦


墓壙から出土した副葬品のガラス玉と板ガラス片 写真提供=浅田昌彦

キリシタンの遺物は出てきた。妻がカトリック信徒であるならば、ミゲルもキリシタンのまま亡くなった可能性は極めて高い。

浅田は実行委員会のメンバーたちに第4次調査の実施を相談した。

だが彼らは、第3次調査で700万円を超える寄付を全員で集め、発掘調査でもボランティアで汗を流してくれていた。それを再び繰り返すのには限界があった。

浅田は覚悟を決めた。改めて自分も前に出るしかなかった。

第4次調査は第3次以上に規模が大きくなる。掘り出す範囲を倍ぐらいに広げなければならない。浅田は、定年延長の途中で会社を辞め、発掘作業に専念していた。もう私費だけでは無理だった。

すると第3次調査で作業を手伝ってくれた長崎市の測量会社が、クラウドファウンディングと公式ホームページの立ち上げを提案し、その作業を引き受けてくれた。さらに各地で講演会を開催し、聴講者らに募金をお願いした。

こうして合計1000万円を超える資金が集まり、コロナが落ち着いた2021年8月、ラストとなる第4次調査がスタートする。もちろん、第3次調査で活躍した地元の人たちも引き続き支援してくれた。

予期した通り、もう一体、成人男性とみられる遺体が出てきた。


千々石ミゲル夫妻伊木力墓所の全体遺構配置図 左の墓壙から成人男性の遺体、右の墓壙から成人女性の大腿骨や歯、ビーズなどの副葬品が出土した  画像提供=浅田昌彦

学識者で構成する千々石ミゲル墓所発掘調査指導委員会で審議を重ねた末、委員長の谷川章雄・早稲田大学人間科学学術院教授(前・日本考古学協会会長)は「千々石ミゲル夫妻の墓所で間違いないという判断に達した」と答申した。

指導委員会が出した結論をもとに、大石と浅田は膨大な量の報告書と分析書を2年がかりで作成し、今年3月下旬、関係自治体を回って提出した。

この5月18日には、諫早市美術・歴史館で支援者たちへの最終報告会を開き、これをもって20年にわたるプロジェクトは幕を閉じる。

「宗教の普遍性」を追い求めたミゲル

結局のところ、ミゲルは「信仰」を捨てたのだろうか?

浅田は「そのことについて自分は踏み込まないことにしている。自分が何か意見を言うと、ミゲルの子孫というバイアスがかかっている、と思われるかもしれないし、それは専門家の皆さんの知見にお任せします」と話す。

「もちろん、ミゲルの名誉が回復されたならそれはうれしい。でも何よりもうれしかったのは、地元の皆さんが主体となった発掘調査が実現したこと。これは後で分かったことですが、民間による遺跡発掘調査はとても珍しいことなのです」

一方、大石にとって20年間、心の支えとなったのは、「ミゲルは背教者ではない」との強い思いだった。

「イエズス会を退会したのは事実。でも、キリスト教を捨て日蓮宗に改宗した、というのは、宣教師たちが書簡の中で語っているだけ。今回の調査で、棄教はしていないことがほぼ証明された。お墓の中からミゲルは、自分の名誉を回復してくれてありがとう、と喜んでいると思う」


大石一久は1952年長崎県平戸市生まれ。山口大学で東洋史を専攻し、県立高校で教鞭をとった後、長崎県文化振興課、長崎歴史文化博物館に勤務。大浦天主堂キリシタン博物館研究部長も務めた 写真=天野久樹

墓石調査を始めたばかりの頃、ミゲルの故郷・千々石町でカトリック信者の聞き取り調査をした。その時のある老人の言葉が忘れられない。彼は昔、平戸で働いていた時、同僚から「お前は千々石町出身か。だったら“鬼ん子”だな」と言われたという。

「鬼ん子」がミゲルの代名詞だったのだ。

まさか、そんなひどい言葉で語り伝えられていたとは想像もしていなかった。が、同時にこうも思った。

「逆に、そこまでバッシングするということは、そうせざるをえない何らかの理由がキリスト教界側にあったのではないか」

戦国時代、イエズス会は日本での布教に際し、寺社破壊など非人間的な行為を繰り返した。さらに、伊勢神宮を破壊する計画を立てているとか、ポルトガル商人が日本人奴隷を海外に売るのを黙認しているといった疑いもあった。これらが秀吉がバテレン追放令を出す背景にあったといわれる。

「ミゲルはこうしたイエズス会の負の部分も見続けてきた。彼は純真な男だから、不信感や失望が積み重なり、バッシングも覚悟の上で脱会を決意したのではないか」

日蓮宗に改宗して大村藩に仕官した、というイエズス会側の証言も、史実には一致しない。というのも当時、大村藩領のキリシタン信徒数は最盛期を迎えていたのだ。

「ミゲルの従弟にあたる藩主の大村喜前は、キリシタン王国を築くためにミゲルを迎え入れたのではないか。墓の立派さから考えても、彼の後半生は、よく言われる“枯れない雑草”となって路頭をさまよう哀れな背信者、などではなく、晴れ晴れとしたものだったと思う」

少年使節として欧州に渡った際、ミゲルはこう語ったという。

「(自分は)全世界に直属する一個の住民であり市民だ」

「彼の意識の中には、『世界市民』という理想が常にあった。だから、最後まで『宗教の普遍性』を第一に考え、インカルチュレーション(伝道先の異文化を導き入れて土着化すること)の重要性を認識し、日本人の伝統や文化も大切にしていた。これが私がたどり着いた結論です」と大石は締めくくった。


20年かけて伊木力墓石が千々石ミゲル夫妻の墓であることを証明した浅田昌彦さん(左)と大石一久さん 写真提供=浅田昌彦

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