2003~07年に大阪市長を務め、職員厚遇問題をきっかけに市政改革に取り組んだ関淳一(せき・じゅんいち)さんが亡くなった。88歳だった。
大阪の幹線道路「御堂筋」を整備した、大正から昭和初期の関一・元大阪市長の孫。1961年に大阪市立大学医学部を卒業し、市立病院の医師、市の首席医務監、環境保健局長を経て、95年から当時の磯村隆文市長の下で助役を務めた。03年に磯村市長の後継として市長に初当選した。
04年以降、ヤミ退職金・年金、スーツ支給などの職員厚遇問題、全庁的なカラ残業などが次々と明るみに出た。市の同和対策の拠点だった芦原病院への無担保・未回収の130億円融資問題なども表面化した。
これらを受け、4万8千人いる職員を5年間で1割減らし、一般会計や特別会計などを合わせて2250億円削減するといった大規模な職員削減、経費圧縮を盛り込んだ市政改革に着手した。
この動きに市役所や議会の反発が強まると、05年に「改革案の信を問う」として、任期を2年残して辞職、再出馬を表明した。
それまで大阪市長選では約30年にわたり、共産党を除く各党が助役出身者を推し、職員労組の支援も得て当選させる相乗りの構図が続いてきた。
関氏は出直し選で、職員厚遇問題の背景に労組との癒着があったとの批判を受け、初当選時とは一転、労組と一線を画した選挙戦を展開。選挙では、改革に向けて「捨て石になる」と繰り返して再選した。3選をめざした07年の市長選では、元毎日放送アナウンサーの平松邦夫氏に敗れた。
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