解説は室木さんです。能登半島地震から半年が経過し、北陸中日新聞では、震災対応の司令塔となる県庁などの発生直後の対応を検証しています。県庁トップの馳浩知事にも着目しました。

元日午後4時10分の発生後、県庁から奥能登の各市町などへの電話がつながらないこともあり、被害状況がすぐつかめず県庁内は混乱しました。午後6時半に最初の災害対策本部員会議が開かれましたが、「珠洲で倒壊家屋がかなりある」とか「救助が必要な事案は6件」など情報は断片的でした。会議室のモニター画面に映る輪島市の朝市通りの火災が、甚大な被害を予感させました。
最初の会議で馳知事は「大変な事態となりました。人命救助最優先で対応をお願いします」と呼びかけました。ただし、その姿はモニター画面越し、オンラインでの参加でした。発生時は休暇で自宅のある東京に帰省していたためです。馳知事は国会議員時代の経験から首相官邸にヘリポートがあると考え、いち早く石川に戻る最善策として官邸に向かいました。そこで電話で各地と連絡を取りながら指示を出したようです。
知事は、午後8時に防衛省から自衛隊ヘリで出発、県庁に着いたのは午後11時を回っていました。発生から約7時間、県庁はトップが不在だったことになります。

馳知事は「影響はまったくない。すぐに副知事と連携を取って対策本部設置や市町との連携をした」と説明しました。しかし県議会では知事の出身母体の自民党県議から「知事はあの恐ろしい揺れを体験していない。もう少し情報をキャッチし初動態勢をしっかりとしてくれれば、皆さんも安心できたのでは」と疑問の声が出ました。

一方で今回の震災は、半島という地理的要因に加え、道路網の寸断、多くの人が休む元日などの悪条件が重なった影響は大きかったと言えます。仮に知事が県内にいたとして何ができたかなどは、まだまだ検証が必要だと思います。

ただ、最近まで長年、県の災害危機管理アドバイザーを務めた神戸大名誉教授の室崎益輝(むろさき・よしてる)さんは、被害の全体像をとらえる想像力に欠けていたことが初動の遅れにつながり、救助や物資支援が後手(ごて)に回った可能性を指摘します。「マグニチュード7.6が起きた瞬間に2万棟(むね)が全半壊していると、部下から数字が上がってこなくてもイメージする。それが危機管理だ」とも話しました。

また、災害派遣医療チーム「DMAT(ディーマット)」の活動で被災地に入った福島市の小早川義貴(こはやがわ・よしたか)医師は「あと半日早く動けたのでは」と振り返ります。石川県から県外のDMATへの派遣要請は2日午前10時前で、派遣第一陣が奥能登の病院に着いたのは3日でした。小早川医師は「症状が変わりやすい急性期の医療を担うなら、県の要請を待たず国が独自に判断し、少しでも早く被災地に入るべきではなかったか。もっと助かる命があったかもしれない」と悔やみます。

発生翌日の2日朝、馳知事はヘリで能登上空を視察しました。直後の会議で、珠洲市の壊滅的状況、人命救助の未対応が約50件あるなど厳しい情報が入ってきました。こうした事態を予想する想像力が十分でなかったと専門家から指摘がある以上、危機管理能力を高めるため、可能な限り検証を続け、具体的対策を考えることが求められます。

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