日本の政治が変わる。10月27日の衆院選での大敗により、自民、公明両党の連立による与党体制がくずれた。両党で公示前の議席数279から215と、過半数の233議席を大きく割り込んだ。有権者の選択は自公政権の継続に待ったをかけた。2012年からつづいてきた、自民党一強の「ネオ55年体制」がついにおわりを迎えた。24年仕様の新たな政権枠組みの模索がはじまる。

「懲罰投票」で自民党に熱いお灸

自民党が負けるべくして負けた選挙だった。たしかに「負けに不思議の負けなし」である。敗因はいうまでもなく、安倍派を中心とする派閥の政治資金パーティーをめぐる資金の不記載、いわゆる裏金の問題だ。

岸田文雄首相が退陣表明し、9人もの候補者が名乗りをあげた総裁選で、裏金批判の流れをかえ、さらに非主流だった石破茂へと表紙を新しくすることで、党の危機を乗り切ろうとした。しかし、しくじった。やはり世論はそう甘くなかった。

とくに選挙戦の終盤で明らかになった、非公認候補が代表をつとめる政党支部に2000万円を支給していた問題は、有権者の怒りの火に油をそそいだ。

自民党が選挙で大敗するときのパターンは決まっている。スキャンダルなどで柔らかい保守支持層が離れてしまい、それまで自民党に投票していた有権者が野党に投票したときだ。今回の衆院選でも読売新聞と日本テレビの出口調査によると、小選挙区で自民党は支持者の6割しか固めきれていなかった(読売新聞10月28日付朝刊)。

さかのぼればリクルート事件後の1989年の参院選と、その延長線上で92年の東京佐川急便事件により再燃した政治改革が争点になった93年の衆院選もそうだった。09年の政権交代選挙は趣が異なるが、長年の自民党政治に嫌気して「民主党に投票したい」ではなく「自民党に投票したくない」が有権者の気持ちだった(小林良彰著『政権交代』中公新書)。

共通するのは、しばしば使われることばだが、有権者が自民党にお灸をすえるということだ。比較第1党になったものの、150以上あった立憲民主党との議席差を43まで詰め寄られたこんどのお灸は、参院で多数を失った89年の参院選並みの熱さだった。「懲罰投票」である。

自民党としては党内野党の石破に振り子を振って疑似政権交代を印象づけようとしたものの、党内基盤の弱い「石破振り子」はほとんど動けないままだったことも響いた。衆院解散・総選挙の時期が端的な例で、それまでの主張を引っ込めて石破は党内の大勢に従い、すぐさま解散を断行した。有権者は元の木阿弥と受けとめた。石破政権への「将来期待投票」ではなく、旧来の自民党政権の「業績評価投票」になってしまった。

迫られる与党体制の再構築

与党で過半数確保を選挙の勝敗ラインに設定した以上、石破をはじめとする自民党執行部の責任問題は避けられない。石破は投開票日翌日の28日の記者会見で、続投の意向を表明。これより先、公明党との党首会談で自公連立政権を維持していく方針を確認した。

11月7日ごろに想定されている特別国会召集までに落選した閣僚や、引責辞任した小泉進次郎選挙対策委員長の後任人事など、まず足元を固めようとするのだろうが、それだけで済むのかどうかだ。

すでに選挙敗北の責任を取っての退陣論が出ている。今後、総裁選で石破との決選投票を戦った高市早苗を後継総裁の念頭に、25年夏の参院選もにらみながら党内対立が深まる可能性がある。さらには森山裕幹事長が続投の意向を示していることも非主流側から批判を招くのは必至だ。

石破続投には党内手続きをへたうえで、衆院本会議での首相指名選挙で選出されなければならない。1回目投票で過半数にとどかなければ、上位1、2位の決選投票に持ち込まれる。過去には、大平正芳、福田赳夫と党内から2人の首相候補が出て衆院本会議の決選投票でケリがついた79年の40日抗争のようなドロ沼の権力闘争に発展した例もある。

党内には、石破総裁の選出から新体制の過程で、それぞれ石破と高市を推した勢力で主流―非主流の色分けがはっきりし、感情的なしこりが残っている。今回の衆院選で旧安倍派の幹部らが非公認になり、いわゆる裏金議員も比例代表との重複立候補が許されず小選挙区単独となった結果、44人中27人が落選した。かれらの間には不満のマグマが充満している。

石破退陣の有無にかかわらず、少数与党の自公両党は体制の再構築を迫られる。追加公認などを含めても衆院で過半数に届かない現状では、予算も法律も成立しない。第2党の立憲民主党が中心となってオール野党で政権を樹立し政権交代を実現しない限り、比較第1党の自民党が公明党に加え、ほかの会派も取り込んで政権を担当することになる。

政策面で自民党との距離で近いのは国民民主党と日本維新の会だ。少数与党政権を再構築するには(1)閣僚を出して連立政権を樹立するのか、(2)閣僚は出さなくても政策協定を結んで与党として連立政権に加わる閣外協力とするのか、(3)政策ごとに法案の成立などに協力する部分連合(パーシャル連合)とするのか──のいずれかのやり方がある。

国民民主、維新両党とも自公だけでなく立民との連立も否定している。石破自身も28日の記者会見で「現時点では野党との連立は想定していない」と述べた。となると閣外協力や部分連合のかたちをうまく整えられるのかがカギだ。そうした調整役をだれが担うのかだが、相当な政治的手腕が必要になる。失敗すれば政権の投げだしにつながる。

極論の広がり含め政治は不安定に

戦後政治を振りかえっても、24年は大きな節目の年になった。今日につづく政治の枠組みの原型ができたのは55年である。自由党と日本民主党の保守合同により自民党を結党、同根の新自由クラブとの連立の一時期をのぞき、それから93年まで長期単独政権を維持した。

この間は「1955年体制」と呼ばれる。名づけ親は政治学者の升味準之輔だ。1と2分の1政党制ともいわれる。自民党の勢力の半分の社会党に、公明、民社、共産の野党各党が連なるかたちの政治の枠組みがずっとつづいたためだ。93年の非自民連立の細川護熙、94年の羽田孜両政権といずれも短期間でおわり、同年には自民・社会・新党さきがけの3党連立による社会党の村山富市政権が誕生した。日本政治は連立の時代に入った。

96年の橋本龍太郎政権から自民党首班にもどり、09年には政権交代による3年3カ月の民主党政権をへて、12年の安倍晋三政権で自民党が政権に復帰した。そこから12年間、境家史郎・東京大教授が命名した自民党一強の「ネオ55年体制」が継続してきた。

それが今回の衆院選で大転換するわけだ。自公両党にどの政党がどんなかたちで政権に参加するのかしないのか、これまでの枠組みは否応なくおわる。2024年体制のはじまりである。

保守中道志向の石破自民と、中道保守の野田佳彦立民がぶつかり、ともに中道に寄った結果、そこからこぼれ落ちる層が出てきた。そこを左右の両サイドからすくいあげたかたちなのが、急進リベラルのれいわ新選組と、強硬保守といえる参政党と日本保守党だ。

れいわが9議席、参政党と保守党があわせて6議席を確保したことの意味合いは、極論が拡散する言論状況とも合わせて認識しておく必要がある。もちろん欧米ほどではないにしても、日本社会の分断・分極化を予感させる現象である。

自公プラスαと立民の両側に政党が立地する政治状況。そこまでも視野にいれて2024年の新たな政治の枠組みと、とらえておくべきかもしれない。

まちがいなくいえるのは55年体制と同じように政治の安定をもたらしてきたネオ55年体制が崩れ、日本政治はふたたび不安定な時期に入るということだ。(文中敬称略)

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